トラになった男、モグラになった女
トラになった男とは中島敦の小説『山月記』の主人公・李徴である。この「トラ」は葛飾柴又生まれのフーテンでもなければ、甲子園を本拠地とする球団でもなく、正真正銘のトラ、哺乳綱食肉目ネコ科ヒョウ属に分類される食肉類のことである。一方「モグラ」の方は、あの地中で生息する動物のことではなく、モグラ女子、すなわちグラビアモデルのことである。そしてモグラになった女とは、言うまでもなく小保方晴子(敬称略)のことである。今回は李徴がトラになった理由と晴子がモグラになった理由に共通点はあるかを考察してみたい。
まず李徴とはどんな男なのか。
博学才頴(はくがくさいえい)、天宝の末年、若くして名を虎榜(こぼう)に連ね、ついで江南尉(こうなんい)に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗(すこぶ)る厚く、賤吏(せんり)に甘んずるを潔しとしなかった。
エリートなのになぜか、あまり重要な役職は与えられなかったようである。その点で理研のユニットリーダーにまでなった晴子とは違う。李徴は潔く退職する。懲戒解雇という処分を受けないために退職した晴子は潔いとは言えない。李徴は退職後は「ひたすら詩作に耽った。下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとした」のであるが、「文名は容易に揚らず、生活は日を逐うて苦しく」なり、結局、詩家として名を残すという夢をあきらめ、地方官吏の職に就く。そして「膝を俗悪な大官の前に屈するより」も大きな屈辱を味わうことになる。
曾ての同輩は既に遙か高位に進み、彼が昔、鈍物として歯牙にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の儁才(しゅんさい)李徴の自尊心を如何に傷けたかは、想像に難くない。彼は怏々として楽しまず、狂悖(きょうはい)の性は愈々いよいよ抑え難くなった。
ここで李徴変身の理由のキーワードとなることば「自尊心」が登場する。自尊心を傷つけられたとき、人はどのように反応するか。表面的には無反応、でも内心では怒りまくる、というのが一般的ではないだろうか。自尊心とは自らを尊ぶ心である。そういう心を持つというのは、結構恥ずかしいことだと私は思う。でも人は誰でも心のどこかで「オレ様は尊いのだ」と思っている。ただそれを口には出さないだけである。自尊心は心の陰部である。それは他者の前では絶対に隠しておかなければならないものなのだ。だからそれが傷つけられたからといって、表立って反応することはしない。そのため余計に怒りが湧く。しかしここでさらなる困惑が生じる。怒りを向ける矛先が曖昧なのである。自尊心を傷つけた相手が悪いのか、それとも自尊心を持っている自分が悪いのか。自尊心はやり場のない怒りを生む。
やり場のない怒りは李徴を非常識で不道徳な言動に駆り立てた。そしてとうとうトラになってしまう。トラ化した李徴は自分の変身の理由について思い当たることを語る。
人間であった時、己は努めて人との交(まじわり)を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云わない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。
ここでもう一つのキーワード「羞恥心」が登場する。人付き合いを避け、他人に尊大な態度をとるのは羞恥心からだという。では李徴は何を恥じていたのか。自分の自尊心が異常であること、李徴のことばを借りればそれが臆病であること、である。人は羞恥心があるから陰部を隠すが、衣服を着ることは人として自然な振る舞いであり、特別に意識してそうしているわけではない。
しかし李徴の場合、意識して心の「陰部」である自尊心を隠さねばならなかった。李徴は自己の自尊心が臆病であることを自覚し、そしてそのことを病的に恥じていた。普通恥ずかしいと感じたら、人は委縮する。だが病的な恥の感情は李徴に正反対の行動をとらせた、すなわち尊大な態度をとらせた。
では臆病な自尊心とはいかなるものか。
己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慚恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。
自分に才能があることに確信が持てず、才能を伸ばそうとする努力をしなかった。もし努力をして、その成果が表れないなら、自分に才能がないことが確定するから。臆病な李徴には、そのようなことは耐えられなかった。自分を凡人と認めるぐらいなら、何の根拠もなく才能があると信じる方がましである。李徴は、いわば自分の才能を「神」とあがめる「宗教」にはまり、その「信仰心」だけが膨らんでいった。この「信仰心」が臆病な自尊心である。
しかしもうひとりの李徴がいた。奇妙な「宗教」にはまっている自分を病的に恥じる李徴である。この病的感情は尊大な態度として現れた。そして「信仰心」が篤くなるにつれ、行動は過激になり、最終的には李徴をトラにしてしまった。
晴子もまた李徴と同じ「宗教」にはまっている。しかし晴子には、もうひとりの晴子はいなかった。すなわち晴子には羞恥心がなかった。だから彼女はトラにはならず、モグラになった。晴子を指導した常田は彼女のことを次のように語る。
まず、非常に明るい。おそらく陰でいろいろな努力や苦労をしていると思うが、そういうところは一切人には見せず、会うと常に明るく楽しく接する。そういう接しやすさが一つ。あとは研究に対しての厳しさ。決して妥協しないという強さを持っているところが、(小保方氏を)成功に導いたのでは。
捏造の科学者 STAP細胞事件(p32)
晴子が、研究に対する甘さと安易に妥協して(不正を行うという)弱さを持っていたという事実が明らかになった今、常田の人を見る目のなさもまた露呈された。とすれば晴子が「陰でいろいろな努力や苦労をしている」という評価も怪しい。何せ彼女は「そういうところは一切人には見せ」なかったのであるから、それは常田の憶測にすぎない。しかし常田にそのように憶測させるような何かがあったと私は憶測する。つまり晴子が努力したのは、研究ではなく、自分が「努力の人」であることを、さりげなく周囲にアピールすることであった。
さてトラになったおかげで李徴は正常な自尊心を取り戻すことができた。「己がすっかり人間でなくなって了う前に、一つ頼んで置きたいことがある」と旧友に頼み事をするのである。
曾て作るところの詩数百篇、固(もと)より、まだ世に行われておらぬ。遺稿の所在も最早判らなくなっていよう。ところで、その中、今も尚記誦せるものが数十ある。これを我が為に伝録して戴きたいのだ。何も、これに仍(よ)って一人前の詩人面をしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。
その評価などどうでもいいから、とにかく作品を残したいと願うのである。そして最後に李徴の妻子が「道塗(どうと)に飢凍(きとう)することのないように計らって」ほしいと頼んだ後で次のように自嘲する。
本当は、先ず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕すのだ。
自分を卑下し、自嘲するのは自尊心と羞恥心が正常に機能している証である。
そして旧友との別れ際にトラ化した李徴は告げる。
今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上ったら、此方を振りかえって見て貰いたい。自分は今の姿をもう一度御目に掛けよう。勇に誇ろうとしてではない。我が醜悪な姿を示して、以て、再び此処を過ぎて自分に会おうとの気持を君に起させない為であると。
〔中略〕
虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、又、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。
トラとなった李徴は再びその姿を見せることはなかったが、モグラとなった晴子はこれから何度でもその姿を見せるであろう。そして研究者として復活することを願う真面目なファンを失望させつつ、新たなファンを増やしていくかもしれない。彼女の自己プロデュース力は相当なものだから。晴子の変身はモグラだけで終わるものではない。次にどのように変身するか楽しみである。その姿を見て、ある種の人は「生き恥を晒す」と表現するかもしれないが。
こんな姿に変身すれば、また叩かれまくるのでやめた方がいい。