4に至る病
キェルケゴール曰く「死に至る病とは絶望のことである」らしいが、これはキリスト教的発想であり、仏教的には「4に至る病とは9である」ということになる。そして9の研究は9を二つ(aとb)に分割することから始まる。そこから新たな数字cをつくることを試みる。aとbはa+b=9という関係にあり、c=10a+bという式で新たな数字cを作る。
a=0,1,2,3,4,5ならばc=9,18,27,36,45,54である。9から作られた新たな数字cの内、45以外は54も含めてすべて108の約数である。9にとって4が特別な数字であることは言うまでもないが、ではa=4とb=4では何が違うのか、言い換えれば45と54はどちらも4を含んでいるのになぜ45だけが排除されるのか。それは45が約数に5を含んでいるからである。5は悟であり、悟りは煩悩の天敵である。しかし4+5=9であり、死がある限りいくら悟りを開いて煩悩を振り払おうとも苦から逃れることはできない。これは死は苦ではないという先の主張と矛盾しているように聞こえるかもしれないが、そうでないことは後述する。
悟(5)もまた2と3で構成されている、しかも小学生でもわかる単純なしかたで(2+3=5)。ただそれは悟りを開くことが簡単だということを意味しない。ただ悟らないようにする(迷う)ことは簡単である。そのために必要なのは0、すなわち無である。その場合の無とはまず無知であること、特に自分が無知であることを知らないことが無知の要といえる。さらに恥知らず(無恥)であれば完璧である。無知な存在を作り出す式が5^0=1である。身(3)も蓋(2)もない言い方をすれば、1とは「ひと」すなわち人のことである。人は皆、無知であり、悟りを開いた者はもはや人ではなく、仏である。
私は前回の記事で煩悩の最低値は23であると言ったが、悟りを開くことによってそこからさらに5減らすことができる。つまり18が本当の最低値である。しかしいまだかつて18というスコアをたたき出したのはお釈迦さんぐらいだと言われている。事程左様に18という役数は45とは逆の意味で特別な存在であり、その数字を生み出す9(=3^2)の1と8(=2^3)への分割は黄金分割と言われる。黄金分割は一方の数字が決まれば自動的に他方も決まるので、それを決めるのは1か8かということが問題になるのであるが、言うまでもなくそれは1(人)である。煩悩の最高値108は1(人)が悟りを開こうとなどという邪心を抱かぬように、戒めとしてその次に無知なる存在0を付け、そして最後に黄金分割の片割れ8を付けて出来上がったのである。というわけで今回はここまで。