零は……
1、2、3、4、5、6、7、8、9を数記号と呼ぶ。1桁の数字は1から9までのいずれかひとつの数記号で構成された数字である。2桁の最初の数字は10である。ここで記号0が登場する。それは数記号1と記号0で構成された数字である。数記号と異質な記号0を零と呼ぶ。1桁の数字に零は登場しない。2桁以上の数字においては、ある位に存在する零はその位に数記号が存在しないことを示している。
n桁の数字にはn個の位が存在する。そして最高位には必ず数記号が存在する(そこに零が存在することはない)。最高位より下の位には、そこに数記号が存在しなくとも、位は存在する。位とはそこに数記号が座るべき座席のようなものであり、そこが空席であることを示すのが位取り記法における零の役割である。では数字0において零の役割は何であるのか。数字0は0桁の数字であり、その数字には0個の位が存在する。つまりその数字には位が存在しない。数字0においては、零は(数記号ではなく)位が存在しないことを示しているのである。つまり零は何かが存在しないことを示す記号であり、それがどこに存在するかによって、何が存在しないかが示される。
だとすればa=0という式は「数aは数字0に等しい」と解釈することもできるし、「記号aと同じ記号は存在しない」と解釈することもできる。しかし論理学的には後者の解釈は不可能である。なぜなら記号aが存在するならば、それと同じ記号は少なくともひとつは存在する。それは記号aである。
だとすれば論理学的に次のような命題が成立する。すなわち「a=aでないaが存在するならば、a=0である」。この命題の対偶は「a=0でないならば、a=aでないaは存在しない」である。要するに、この命題の言わんとするところは、0=0ではないということである。零はゼロと同じではない、これが零の真実である。
この不合理な真実を数学的に合理化したものがε-δ 論法におけるεである。すなわち「0=0でない」という数学的に不合理な命題は「ε>0である」という命題に置き換えたのである。そこでは零が0ではなく、εと記述されている。「ε-δ 論法を用いない微分積分学は厳密性に欠ける」と言われるが、私は声を大にして言いたい、ゼロを0と記述するならば、零もまた0と記述しなければならない、と。