シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

「シュレディンガーの狸」の謎に迫る。

私は、私のブログのタイトルが、なぜ「シュレーディンガーの狸」なのかという難問について、ずっと考え続けてきた。そして、ついに答を見つけ出した。

みなさんは、かの有名な「シュレーディンガーの猫」についてはすでにご承知のことと思うので、ここでは説明を省略するが、ご存知でない方は「シュレーディンガーの猫」を参照していただきたい。なお、今回の記事を理解するのに「シュレディンガーの猫」を理解する必要は、まったくないので、暇と好奇心のある方以外には参照することをお薦めしない。

で、結論を先に行ってしまえば、このブログのタイトルは実は「シュレディンガーの猫」なのである。しかし、タイトル欄には確かに「シュレディンガーの狸」と表示されている。どういうことか? 簡単な話である。私は「狸」という言葉で、世間一般では「猫」と呼ばれている動物を意味していた、それだけの話である。

しかし「それだけの話」で終わってしまうのも何であるから、もう少し考察を深めてみよう。問題は「狸」ということばで、世間一般で「猫」と呼ばれている動物を意味することは可能か、ということである。これは「意味する」のは人なのか、それとも言葉なのかという問題に還元される。なお「猫」も「狸」も名詞(正確にいえば普通名詞)なので、以後それらの言葉をということにする。

もし意味するのが人ならば、私が「狸」は「猫」を意味すると宣言した時点で、それが可能となる。しかし意味するのが名ならば、話は別である。名は意味を持っている、という命題は、名が意味するという命題と等価であると私は考える。

では「猫」という名は何を意味しているのか? この問は次のように言い換えることができる。すなわち「猫」という名のが持っている意味とは何であるか? さらにこの問は次のように単純化される。すなわち猫とは何か? そしてこの問には本質的な答はない。なぜなら「猫」が名であるからである。

確かにWikiは「猫とは何か」という問に答えてくれる。

ネコ)は、狭義には食肉目ネコ科ネコ属に分類されるヨーロッパヤマネコが家畜化されたイエネコ(家猫、Felis silvestris catus)に対する通称である。

ネコ - Wikipedia

だがこの答えは「猫」という名の意味について語っているのではない。その名に学術的な(狭義の)定義を与えているのである。だからWikiは次のように捕捉する。

学術用語としては、英語の「cat」と同様、トラライオンなどといった大型種を含む全てのネコ科動物を指すことがある。

学術用語としての「ネコ」は名ではない。「猫とは何か」に強いて答えるならば、その答は「猫とは、世間で『猫』と呼ばれているものである」となるであろう。もちろん人はこの答に満足しないだろう。しかし、そもそも普通に日本語を話せる人は「猫とは何か」という問を持たない。なぜなら「猫」は名であるからである。

「ネコ」のように世間一般に通用している名が、それとは違った意味で学術用語や専門用語として用いられることは、しばしばある。新たに用語を創るよりも、馴染みのある用語を用いる方が、親しみやすいからであろう。

だからブログタイトル「シュレディンガーの狸」における「狸」とは猫(のこと)である、と定義することは不可能ではない。しかし無意義である。まず、この定義が「狸」という名の意味について何ら影響を及ぼすことはない。次にこの定義の主要な要素は「猫」というひとつの名である。つまりこの定義は「狸は猫である」という文に単純化される。そうすると再び「猫とは何か」という問が浮上する。このような問が生じるのは「狸は猫である」という文の中で「猫」という名が機能していない、すなわち名が「仕事を休んでいる」からである。

このことは、名ざすことを一つの、いわば神秘的な出来事として把握することに関係している。名ざすということは、一つの語と一つの対象との奇妙な結合であるように見える。――かくして、哲学者が、名と名ざされるものとの関係そのものを取り出そうとして、眼前のある対象を凝視しつつ、なんべんもある名をくり返し、あるいはまた「これ」という語をくり返すとき、ある奇妙な結合が実際に生じてくる。なぜなら、哲学的な諸問題は、言語が仕事を休んでいるときに発生するからである。

 ウィトゲンシュタイン全集 8 哲学探究p46

さて「猫とは何か」という問に「猫は狸である」と答えるとしよう。そうするとひとつの対象に二つの名、「猫」と「狸」が存在することになる。

A氏、曰く「狸は人を化かすらしいね」。これに応じてB氏、曰く「そうらしいね。その上、猫は化けて出るというから、とんでもない動物だね」。さて、この二人の会話は嚙み合っているのか。

ここでひとりの数学者の意見を聞こう。

aとbとが同一の事物の記号または名前に過ぎないことを、記号a=bにより、またb=aとも示す。

「数とは何か、何であるべきか」(『数について―連続性と数の本質』所収p59)

ちなみに「数とは何か」における「数」は「スウ」であって「カズ」ではない。そこでは「数」は学術用語として用いられている。

さて、この数学者の意見に従えば「猫=狸」あるいは「狸=猫」という式が成立する。しかし、その二つの式は、いずれも定義式ではない(等式である)。定義式においては、定義される記号を左辺に、その記号の定義を右辺に記述するということが(数学を行う者の)社会的習慣となっている。だから両辺を交換することは(誤りではないが)なされない。しかし等式にはそのような習慣はないから、式a=bが成立するとき、その背後では式b=aが成立している。これが文と式の違いである。文「狸は猫である」が成立しているからといって、文「猫は狸である」が成立しているとは限らない。つまり猫には「狸である猫」と「狸でない猫」が存在しているのであり、「狸は猫である」という文は正確にいえば「狸は『狸である猫』である」となる。しかし、その文は定義になっていない。なぜなら定義される名「狸」が、その名の定義「狸である猫」に含まれているからである。

名に定義は必要はない。逆に定義が必要な「名」は本来の名ではない。しかし、そのような「名」も普通に名と呼ばれている。それは固有名詞である。例えば「タマは私が飼っている猫の名である」というときの「タマ」がそれである(そのような「名」を固有名と呼ぶことにする)。固有名「タマ」の定義の本質は「タマは名である」にある。つまり「名」であると定義しなければ名とは認められないのである。

最初は固有名であったものが、意味を獲得し、名に昇格することがある。例えば「デジカメ」(旧三洋電機が自社の商品であるデジタルカメラに付けた固有名)「エスカレーター」(米国のオーチス・エレベータが自社の商品である階段式昇降機に付けた固有名)等々。出典:商品名が一般名称になっているもの|気になることを調べてみましょう

さて、そろそろ結論を述べよう。「シュレディンガーの狸」は私のブログの固有名である。この固有名が意味を獲得し、名に昇格すること、それはありえないことではない。しかしまた、ありそうにないことである。

 猫ピッチャー 6