シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

数とは何か? ~数の単位としての複素数の考察~(1)

私は、この問において「数」という名を学術用語として用いているのではない。したがって以下の考察において数式は登場するものの、私の考察は、その本質においては数学とは無縁である。強いて言えば、私は数学の基礎にあるものについて論じているのである。われわれは数学をするときだけでなく、日常的にも「数」という名を用いており、その経験から「数」に対して先入観を持っている。すなわち「数」の意味を把握している。しかし「数」を、より日常的な語としての「カズ」ではなく、「スウ」と発音する場合、それは、やはり数学の影響であろう。 

われわれの考察が科学的なものであってはならない、ということは本当のことであった。〈われわれの先入観に反して、これこれのことが考えられる〉それがどういうことであろうともという経験は、われわれにとって関心をもちえないことであった。(思考を精気のようなものとして把握すること。)だから、われわれはどのような種類の理論も立ててはならない。われわれの考察においては仮説のようなものが許されてはならない。あらゆる説明が捨てられ、記述だけがその代わりになされるのでなくてはならない。

ウィトゲンシュタイン全集 8 哲学探究p99

数式(数学的表現形式、あるいは式)は二つの数学的対象を正しく等置することによって成立する(「正しい」は「正しくない」ことが立証されていない状態をいう)。典型的な数学的対象の実例として計算の対象が挙げられる。そして計算の対象とその結果を等置した式(計算式、例;1+2=3)が典型的な式である。計算の結果である3は、12の(符号「+」による)数学的結合の産物であると同時に、その結合の根拠でもある。

数学的対象は、次の二つに分類される。①数学的要素(部分)を数学的符号によって数学的に結合することによって構成されるひとつの全体(例;a+b)、②数学的要素に数学的符号が寄生することによって構成される対象(例;a)。なお、ひとつの基本的要素だけで構成される場合も、対象と呼ぶ(単純な対象、例;a)。基本的要素とは構成された要素ではない要素、したがって、もはや要素に分解することの不可能な要素である。単純な対象以外の数学的対象は最終的には複数の基本的要素と符号に分解される。

基本的要素は数値、数学的記号(数記号)、数学的象徴(後に詳しく説明する)に分類される。数記号とは意味のない記号である(意味のある記号をという)。数記号は、名(例えば「数」「意味」「記号」等々、誰もが社会生活の中で使用することば)と違って、私的(恣意的)に作り出すことができる。この点で数値は数記号から区別される。数値は私的に作り出すことはできない。最初の自然数は社会的習慣に従って1と、その次の自然数2と記述しなければならない。 

しかしそれでは、数学に特有な仮借のなさはどこにあるのか。」1のつぎに2が、2のつぎに3がどうしようもなくくるのは、このよい例ではなかろうか。だが、それは基数列の中でつぎにくるということであろう。というのは別の数列の中では違ったものがつぎにくるのだから。そしてこの数列は、まさにこの継起によって定義されているのではないか。「ではそれは、人はどんな仕方で数えようと同様に正しい、誰もが好きなように数えてよい、ということか。」かりに誰もが何らかの仕方で数字を順番に発音したとしてもそれを「数える」とはいわないであろう〔中略〕なぜなら、われわれが「数える」と呼ぶところのものは、われわれの日常活動の重要な一部だからである。

ウィトゲンシュタイン全集 7 数学の基礎p26

この点で、数値は名に類似している。ただ名には意味がある(と言われる)が、数値に意味があるとは言われない。強いて言うならば、数値には大きさがある。

数記号は意味の代わりに定義を有することができる。ある数記号を定義する式を定義式という。定義式による数記号の定義は式の言語的使用である。それでも定義式が式であるのは記号を定義する対象(定義)が数学的対象であるからである。定義式は、正しくないことを立証することが不可能なゆえ、成立する式である。

単純な対象(数値や象徴)が定義となることは可能であるが、数記号だけは単独で定義となることはできない。ひとつの数記号をひとつの数記号で定義することは無意義であるからである。ある数記号と他の数記号を等置する式a=bは(定義式ではなく)等式である。

(続く)

 

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