シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

杜春子(中)

「お前は何を考えているのだ。」

馬鹿の老人は、三度、杜春子の前へ来て、同じことを問いかけました。

「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしようかと思っているのです。」

「そうか。それは可哀そうだな。ではおれが…」

老人がここまで言いかけると、春子は急に手を挙げて、その言葉を遮りました。

「いや、万能細胞もう要らないのです。」

「万能細胞が要らない? ははあ、ではとうとう、ノーベル賞を諦めたと見えるな。」

老人は審しそうな眼つきをしながら、じっと春子の顔を見つめました。

「何、諦めたのじゃありません。人間というものに愛想がつきたのです。」

春子は不平そうな顔をしながら、突樫貪にこう言いました。

「それは面白いな。どうして又人間に愛想が尽きたのだ?」

「人間は皆薄情です。私が万能細胞の論文を発表した時には、世辞も追従もしますけれど、一旦疑惑がもちあがると柔しい顔さえもして見せはしません。そんなことを考えると、たといもう一度、万能細胞を作った所で、なんにもならないような気がするのです。」

老人は春子の言葉を聞くと、急ににやにや笑い出しました。

「そうか。いや、お前は若い者に似合わず、感心に物のわかる女だ。ではこれからは貧乏をしても、安らかに暮らして行くつもりか。」

春子はちょいとためらいました。が、すぐに思い切った眼を挙げると、訴えるように老人の顔を見ながら、

「それも今の私には出来ません。ですから私はあなたの弟子になって、お笑いの修業をしたいと思うのです。いいえ、隠してはいけません。あなたは売れないお笑い芸人でしょう。そうでなければ、『万能細胞の作り方を教えてやる』とだけ言って姿を消すという意味不明なパフォーマンスは出来ない筈です。どうか私の先生になって、不思議なお笑いを教えて下さい。」

老人は眉をひそめた儘、暫くは黙って、何事か考えているようでしたが、やがて又にっこり笑いながら、

「いかにもおれは冠鉄子(カンムリ テツコ)というお笑い芸人だ。始めお前の顔を見た時、どこか物わかりが悪そうだったから、二度までからかってやったのだが、それ程お笑い芸人になりたければ、おれの弟子にとり立ててやろう。」と、快く願を容れてくれました。

春子は喜んだの、喜ばないのではありません。老人の言葉がまだ終らない内に、彼女は大地に額をつけて、何度も老人に御時宜をしました。

「いや、そう御礼などは言って貰うまい。いくらおれの弟子にした所で、立派な芸人になれるかなれないかは、お前次第できまることだからな。が、兎も角もまずおれと一しょに、おれが所属する芸能事務所へ来て見るが好い。おお、幸い、タクシーがやって来た。では早速あれに乗って行くとしよう。」

 

二人を乗せたタクシーは、間もなく事務所に到着しました。

事務所というのは異臭のする河に臨んだ、幅の狭いビルの一室でしたが、よくよく家賃の安い所だと見えて、天井から垂れた裸電球が、うすぼんやりと光っていました。

二人がこの部屋に入ると、冠鉄子は春子をソファーに坐らせて、

「おれはこれから屋上へ行って、大家に家賃を払って来るから、お前はその間ここに坐って、おれの帰るのを待っているがよい。多分おれがいなくなると、いろいろな芸人が現れて、お前をたぶらかそうとするだろうが、たといどんなことが起ろうとも、決して声を出すのではないぞ。もし一言でも口をきいたら、お前は到底芸人にはなれないものだと覚悟をしろ。よいか。天地が裂けても、黙っているのだぞ」と言いました。

「大丈夫です。決して声なぞは出しません。命がなくなっても、黙っています」

「そうか。それを聞いて、おれも安心した。ではおれは行って来るから」

春子はたった一人、ソファーの上に坐ったまま、静かに窓の外を眺めていました。するとかれこれ半時ばかり経って、突然窓の外で声があがって、

「そこにいるのは何者だ」と、叱りつけるではありませんか。

しかし春子は仙人の教え通り、何とも返事をしずにいました。と、どうやって登って来たか、爛々と眼を光らせた男が一人、忽然と窓から入ってきて、春子に言いました。

「こら、その方は一体何物だ。このビルは、天地開闢の昔から、おれがオーナーをしている所だぞ。それも憚らずたった一人、ここへ足を踏み入れるとは、よもや唯の人間ではあるまい。さあ金が惜しかったら、一刻も早く返答しろ」と言うのです。

しかし春子は老人の言葉通り、黙然と口をつぐんでいました。

「返事をしないか。――しないな。好し。しなければ、しないで勝手にしろ。その代り滞っている家賃を今すぐ全額支払ってもらうぞ」

これを聞いた春子は、思わずあっと叫びそうにしましたが、すぐに又冠鉄子の言葉を思い出して、一生懸命に黙っていました。家主は彼女が恐れないのを見ると、怒ったの怒らないのではありません。

「この剛情者め。どうしても返事をしなければ、約束通り金はとってやるぞ」

家主はこう喚くが早いか、春子から鞄を強奪し、からからと高く笑いながら、どこともなく消えてしまいました。

裸電球は又寒そうに、ソファーの上を照らしています。が、春子はとうに意識を失い、仰向けにそこへ倒れていました。

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