シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

杜春子(下)

意識を取り戻した杜春子は、静に部屋を抜け出して、ビルの階段を下りて行きました。

そこは年中暗く、氷のような冷たい隙間風がぴゅうぴゅう吹いているのです。春子はその風に吹かれながら、やがて『知らんねん』というプレートの係ったった立派な部屋の前へ出ました。

その部屋に入ると、床の間には一人の王様が、まっ黒な着物に鉄の冠をかぶって、いかめしくあたりを睨んでいます。これは兼ねて噂に聞いた、閻魔大王とは違います。春子はどうなっているのかと思いながら、恐る恐るそこへ跪いていました。

「こら、その方は何の為に、おれの事務所のソファーに坐っていた?」

閻魔大王に成りすましている冠鉄子の声は雷のように響きました。春子は早速どうなっているのか、事情を尋ねようととしましたが、ふと又思い出したのは、「決して口をきくな」という鉄冠子の戒めの言葉です。そこで唯頭を垂れたまま、黙っていました。すると閻魔大王(冠鉄子)は、顔中の髭を逆立てながら、

「その方はここをどこだと思う?」と、居丈高に尋ねました。春子は「知らんがな」と思いましたが、相変らず唇一つ動かしません。それを見た閻魔大王(冠鉄子)は、すぐに弟子たちの方を向いて、荒々しく何か言いつけると、弟子たち一度にかしこまって、春子を引き立てながら、奥の部屋へ連れて行きました。 【知らんねん】には誰でも知っている通り、鞭や縄、蝋燭の焔という責め道具がそろっています。

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弟子たちはそういう道具で、代る代る春子を責めました。ですから春子は無残にも、【自主規制】れるやら、【自主規制】れるやら、【自主規制】れるやら、【自主規制】れるやら、【自主規制】れるやら、【自主規制】れるやら、【自主規制】れるやら、【自主規制】れるやら、――その苦しみを数え立てていては、到底際限がない位、あらゆる責め苦にあわされたのです。それでも春子は我慢強く、じっと歯を食いしばったまま、ひと言も声を発しませんでした。

これにはさすがの弟子たちも、あきれ返ってしまったのでしょう。もう一度さっきの通り春子を床の間の前に引き据えながら、その上の閻魔大王(冠鉄子)に、

「この罪人はどうしても、ものを言う気色がございません」と、口を揃えて言上しました。閻魔大王は眉をひそめて、暫く思案に暮れていましたが、やがて何か思いついたと見えて、

「この女には生き別れの息子がいる筈だから、早速ここへ引き立てて来い」と、ひとりの弟子に言いつけました。弟子は忽ち春子の息子を探しに、空へ舞い上りました。と思うと、又星が流れるように、さっと戻って来ました。そして冠鉄子

「行別れの息子など存在しません」と報告しました。

「そんなはずはずはない。確かSTAPナンチャラとかいう名前の息子がいるはずだ」

しかし弟子は頑強に「そんなものは存在しません」と否定します。

この両者の会話を聞いていた春子は老人の戒めも忘れて、はらはらと涙を落しながら、「STAP細胞は存在しまぁ~す」と一声を叫びました。…………

 

その声に気がついて見ると、杜春子はやはり夕日を浴びて、ハーバード大学の西の門の下に、ぼんやり佇んでいるのでした。霞んだ空、白い三日月、絶え間ない人や車の波、すべてがまだ日本に帰る前と同じことです。

「どうだな。おれの弟子になったところが、とても芸人にはなれはすまい」

馬鹿の老人は微笑を含みながら言いました。

「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかったことも、かえって嬉しい気がするのです」

春子はまだ眼に涙を浮べたまま、思わず老人の手を握りました。

「いくら芸人になれたところで、私はあの地獄の責めに、鞭を受けている自分が快感を覚えたことを黙っている訳には行きません」

「もしお前が黙っていたら――」と鉄冠子は急に厳かな顔になって、じっと春子を見つめました。

「もしお前が黙っていたら、おれはお前が売れ出した頃を見計らって、春子はドMだとマスコミにタレこもうと思っていたのだ。――お前はもう芸人になりたいという望みも持っていまい。ではお前はこれから後、何になったらいいと思う」

「研究者になって、正直な研究をするつもりです」

春子の声には今までにない晴れ晴れした調子がこもっていました。彼女はまだ一度も作ったことがないにもかかわらず、STAP細胞が存在することを確信していた。

「その言葉を忘れるなよ。ではおれは今日限り、二度とお前には遭わないから」

鉄子はこう言う内に、もう歩き出していましたが、急に又足を止めて、杜子春の方を振り返ると、

「おお、幸い、今思い出したが、おれは理化学研究所という所に知り合いがいる。若山という誠実な男だ。日本に帰ったら彼を訪ねて、研究を手伝ってもらうといい。今頃は丁度研究所のまわりに、桃の花が一面に咲いているだろう」と、さも愉快そうにつけ加えました。