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シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

小保方さんの「失楽園」

エデンの園には「善悪の知識の木」が植えられていて、アダムとイブは、神から「その木の実は決して食べてはならない」と戒められていたにもかかわらず、それを食べた。そして神はアダムとイブをエデンの園から追放した。この話、すなわち旧約聖書の「失楽園」には不可解な点がある。
それは、そもそも、なぜ神はエデンの園に「善悪の知識の木」を植えたのかという点である。人間が善悪を判断してはならない、ただ神に盲目的に服従していればいいのだ、というのが神の主張だとすれば、なぜ判断能力を身に着けることができる「善悪の知識の木」を植えたか?

それは神の実験であった、というのが私の勝手な解釈である。神は人間を、無条件で自分に服従するように創った。そして、この盲目的従順性が、本当に人間に備わっているかを、神は検証しようとした。そのため、あえて「善悪の知識の木」を植え、その上で「その実を食べるな」と命令した。だが人間は神の命令に反してそれを食べた。実験の結果、人間は無条件で神に服従する存在ではないことが明らかとなった。人間の創造において、神は失敗したのである。

神の失敗作である人間は、それでも「善悪の知識の木」を食べたおかげで、一般的には悪を行わないようになった。神は実験が失敗しても、人間が悪を行わないよう、保険を掛けておいたのである。こうして普通の人間は神に従う存在と等価な存在であった。しかし自分は普通の人間ではいと考える人間は「善悪の知識」を悪用し、悪を正当化することを考えた。例えばラスコーリニコフは「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」と殺人を正当化し、実行した。人間の悪行の責任は神にある。ただし、もし神が存在するならばであるが。

 

ところで善悪の知識を得た人間が最初に行ったことは陰部をイチヂクの葉で隠すことであった。つまり人間は他人の目の前で陰部を曝すことは悪いことであると知ったのである。人間が最初に犯した罪、それは現在の法に照らして考えるならば、公然猥褻の罪ということになる。ちなみに、この時点では人前で陰部を曝すことは「悪い」ことではあるが、まだ「恥ずかしい」ことではなかった。人間はまだ羞恥心をもっていなかったからである。しかし、すでに良心はもっていた。なぜなら人前で陰部を曝すことに罪悪感を感じていたからである。

悪を行ったときに感じる不快感、すなわち罪悪感は社会的感情である。それは喜怒哀楽のように人間の脳の生物学的発達によって自然に生まれる感情ではない。罪悪感は良心を獲得することによって、はじめて感じる感情である。では人間は、どのようにして良心を獲得するのか? 小さな悪を繰り返し行うことによって、そしてそれらの悪行を周囲の大人に咎められることによって、である。

社会には「やってはいけないこと」が多々ある。そのうち「悪いこと」は咎められるが、そうでないことは咎められない。「そうでないこと」それは「恥ずかしいこと」、すなわち恥である。恥を行っても周囲の大人は、子供だからという理由で咎めない。しかし子供は成長するにつれ、周囲の大人がやっていないことをやることに違和感を感じる。それは「やってはいけないこと」をやった結果であり、それに違和感を感じるのは、やはり良心があるからである。ただし悪を行ったときに感じる不快感と、恥を行ったときに感じる違和感は異なる。だから後者の感情をもたらすものは(良心ではなく)羞恥心と呼ばれる。羞恥心は良心から派生する。だから良心の無い者には羞恥心も無い。

 

私は小保方晴子さんの手記『あの日』を読んだとき、結構「恥ずかしいこと」が書かれているなと感じた。「これまで指導した中でもベスト3に入る学生」(p44)「過去15年で最高のプレゼンテーションだった」(p51)等々、自画自賛する箇所が散見されるからである。こういうことは普通は、自分の口から言うことではない、というのが私の感覚である。

それ以前に手記を出版すること自体が科学者として「恥ずかしいこと」ではないのか。この手記を評して、太宰治の『人間失格』同様の言い訳文学だと言った人がいたが、調査委員会によって認定された研究不正4件に対する正面からの科学的な反論はなく、ただひたすら「言い訳」に終始する小保方さんは、自分のやっていることが科学者として恥しいことだとは思わないのだろうか。

さらに遡れば、小保方さんの実験ノートの公開がある。もし、それを小保方さんが望んでしたのであれば、小保方さんには恥ずかしいという感情がないのではと思いたくなる。

ひょってして小保方さんには羞恥心というものが無いのか?

そう言えば(どうでもいいことだが)小保方さんの擁護者の中にも結構、恥ずかしい人がいる。m氏との対話コーナーなるものを作られて、晒し者にされているm氏である。

 

小保方さんは「善悪の知識の木」を食べなかった。ただ自らの意思で「科学者の楽園」を去った。だから羞恥心が無い小保方さんには良心も無い、などと恥ずかしいことを言うつもりはない。そもそも「羞恥心は良心から派生する」という主張自体が、何の根拠もない、私の思いつきにすぎないのだから。

 

失楽園