シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

はじめに素数ありき~妄想的創数記~

掛け算(乗法)は足し算(加法)に還元される、例えばA×3=A+A+Aというように。これは乗法は加法から生まれたことを意味する。なのに素数という概念は乗法に固有のもので、加法からは生まれない(これはあくまでも素数という概念について述べたものであって、素数そのものは3+8=11のように、いくらでも加法から生まれる)。すべての自然数素数か、あるいは素数の積である。このように多様な素数とは数の「化学的元素」のようなものである。

素数という乗法的元素が無限に存在するのに対して、加法という観点から捉えられた自然数の元素はひとつしか存在しない。すなわち自然数の加法的元素は1だけである。ある自然数zはz個の1の和である。だが乗法は本当に加法から生まれたのか?

その問は A×1という掛け算を足し算に還元するにはどうすればいいかという問に置き換えることができる。還元されないとするのがひとつの考えであるが、あえて還元するならば、A×1=A+0とするしかない。ここで加法における自然数の、もうひとつの元素0が登場する。すなわち自然数zはz個の1とzに規定されるある特定の量α(それは自然数である必要はない)の0からなる。すなわち

     z=1+1+…+1+α×0

という仮説が登場する。

さて自然数とは人が最初に発見した特殊な数であり、数は自然数が発見される前にすでに存在していた、と考えてみる。そして0を含む数一般を発見するまでは、人は数αに0を掛けると0になること、すなわちα×0=0であることを知らなかった。ところで数に掛ける0(α×0 : 乗法の0)と、z+0の0(加法の0)は同じ性質のものであるか?私は違うと考える。

乗法の0ははじめから与えられているが、加法の0はそうではない。それは乗法α×0の計算の結果として得られるのである。加法の0がなければz+0=zは成立しない。すなわち0については乗法が加法の前提となるのである。

さて、ここで乗法の0と加法の0を区別するため、α×0=0の代わりにα×dα=dzと書く。dαが乗法の0を表わし、dzが加法の0を表わす。この式を

     dα/dz=1/α

と書き換えることができるとすれば、

     α=log z

が得られる。ではzとは何か?dzが加法の0であるならば、z+dz=zであり、zは任意の自然数である。とすれば仮説は、

     z=1+1+…+1+log z×0
という形で提起される。すなわち自然数zはz個の1とlog zと0の積の和である。

ちなみにdαについては

     dα=log(z+1)-log z

と定義されるはずである。ここで素数が登場する。1からzまでの間に存在する素数の個数をπ(z)とすると、ある条件のもとでlog z=z/π(z)が成立する(素数定理参照)。したがって

     dα=(z+1)/π(z+1)-z/π(z)

となり、さらに一般にπ(z+1)=π(z)である(その差が1である素数は2と3だけである)から

     dα=1/π(z)

    π(z)×dα=1

となる。ちなみにlog z=z/π(z)が成立する条件であるが、それはzが無限大であることである。ということで妄想的創数記の最初は以下のとおりである。

はじめに素数ありき。神は自然数の中から素数を探し出し、その数を数えた。もちろん素数は無限に存在するから人間には、それを数え尽くすことはできない。だが神に不可能はない。神は素数を数え尽くし、その個数に神聖な0を掛けた。そうすることによって自然数1を創り出した。そしてこれを人間に与えた。

 

素数はなぜ人を惹きつけるのか (朝日新書)