シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

そのこと

約一年前にある記事を書いた。それはある映画について感想を述べたものである。その後、これと同じ系統の映画を二つ観た。「これと同じ系統」とは、要するに主人公がそのことに気づかないまま話が進む映画ということである。そのうちのひとつは、その映画と同じように、主人公がラストになってそのことに気づくのであるが、もうひとつは、主人公が途中でそのことに気づくのである。つまり実は主人公は既にそうなっていたということで落とすのではないく、自分がそうなっていることに気づいた主人公が悪に闘いを挑むという形で物語は展開されるのである。いわば主人公は善良な、略して「善」である。

ところで「そのことに気づく」ためには、そのことが事実であるという前提が必要である。例えば学とみ子が、自分が馬鹿であることに気づくのは、彼女が事実として馬鹿である限りにおいてである。そしてどうやら彼女はそのことに気づいていないどころか、正反対のことを考えているようだ。このような考え(自分は利口だ)を思い込みという。

では学とみ子が「自分は馬鹿である」よりも重要な事実、すなわちそのことに気づくことはあり得るのか。もちろん、否である…はずだ。そのことは事実ではない…はずだからである。しかし、ここでひとつ気になる点がある。何度指摘されても例の登録をしないということである。もし、しないのではなく、できないのだとしたら…?。学とみ子は「小保方晴子は天才で、STAP細胞は存在する」と思い込んでいたときに、そうなったとしたら、その強すぎる思い込みが彼女を「ネット」にしていまったということは、ありえないことなのだろうか…?

もし私の想像が本当なら、ため息さんたちが学さんに関わることは危険である。彼らはその道、すなわち悪の専門家ではないのだから。

 【注】にはすべて同じ漢字一字が入ります。ヒントは「善良」です。

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