シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

女優を演じる女優・クロエ編

クロエは20年前『マローヤのヘビ』でジュリエットが演じたシグリッド役を今回、新たに演じる女優である。

クリスティンが姿を消してから数週間後、ジュリエットは『マローヤのヘビ』が上演されるロンドンにいた。そこでクロエの新たなスキャンダルが持ち上がる。彼女の不倫相手の妻が自殺を図ったのだ。クロエと不倫相手のツーショット写真を撮ろうとするパパラッチに追われるクロエは、意外にも気丈であり、舞台のリハーサルも予定通りこなすという。

ロンドンに舞台を移した途端に、クリスティンの存在が忘れ去られている、というよりまるではじめから存在していなかったかのように描かれていることに違和感を覚えるのは私だけではないはずだ。このクリスティンの奇妙な不在は「女優を演じる女優・クリスティン編」で述べたヘレナの奇妙な存在、すなわち「ヘレナは劇が始まる前から存在していた」に対応する。

リハーサルでジュリエットはクロエの演技に注文を付ける。クロエ演じるシグリッドがヘレナから去るそのとき、彼女の演技では、まるでヘレナがそこに存在しないかのように観客に受け取られると指摘し、もう少し残されたヘレナの絶望に余韻が出るような演技を提案する。だがクロエはこの提案を、意味が無いと一蹴する。まさに清々しいほどの傲慢さである。他方でジュリエットは新しいシグリッド、すなわちクロエを受け入れることにする。そして自分がシグリッドを演じたときの記憶を断ち切り、未来に向かって生きることを決意する。(クロエが演じる)シグリッドはまさにそのための「道具」にすぎないのである。ジュリエットは自殺のための「道具」だと考えたが、それはヘレナの死を前提とした間違った解釈であり、クリスティンの解釈が正しかったのである。

いよいよ舞台の初日を迎えるジュリエットの楽屋をひとりの脚本家が訪れる。自分の脚本に登場するミュータントの役を引き受けてくれないかというのだ。その役はジュリエットをイメージして書いたのだと言う脚本家に対して、ジュリエットはそれは若い頃の私でしょ、と答える。だが脚本家が言うにはこのミュータントには年齢はない、あるいはあらゆる年齢であり、それは時を超越した存在だと主張する。

ジュリエットは舞台に上がり、幕が開くの静かに待っている。何かを見つめるジュリエットの眼には諦観とでも言うべきものがうかがえる。そしてここで、すなわち劇『マローヤのヘビ』が始まる前に、映画は終わる。

ジュリエットが最後に見たもの、それは「マローヤのヘビ」である。すなわち自分の「隠された本質」が自分の前に姿を現したのだ。そしてその「本質」もまたジュリエットを見ている。クリスティンは消えたのではない、ジュリエットの中に入り込み、その本質となったのである。そうすることでジュリエットはヘレナになることができた。ヘレナの本当の姿、それはジュリエットとクリスティンという対立する二者、相互に反発し合うと同時に牽引し合う二者が統一された姿である。だからヘレナは劇が始まる前に、その本質がクリスティンであるジュリエットとしてすでに存在したのである。

女優を演じる女優・ジュリエット編で演出家はシグリッドがヘレナになるには20年かかると言った。しかしジュリエットとクリスティンがヘレナになるには数週間しかかからなかった。ヘレナはまさに「時を超越した存在」なのである。

 

クロエが出演したハリウッド映画『キック・アス ジャスティス・フォーエバー』

キック・アス ジャスティス・フォーエバー (字幕版)