シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

アキレスと亀

ゼノンのパラドックスとは次のようなものである。

アキレスは,亀を後方から追いかける。アキレスが、はじめに亀がいた場所にたどり着いたとき、亀は前方にいる。またしてもアキレスは亀のいる場所を目指すが、その場所にたどり着いたとき,亀はやはり前方にいる。このように亀は常にアキレスの前方にいる。ゆえにアキレスが亀に追いつくことは不可能である。

このパラドックスは結局、次の自明のことを、したがって無意義なことを主張しているにすぎないのではないのか、すなわちアキレスが亀に追いつくまでは、アキレスは亀に追いつくことができない。
しかしこのパラドックスについては別の観点から、無意義であると解釈することが可能である。亀が常にアキレスの前方にいるのは、アキレスと亀が本質的に同じ運動を繰り返しているからである。その運動の1回目は、「アキレスが、はじめに亀がいた場所にたどり着いたとき」完結する。と同時に2回目の運動、すなわち「またしてもアキレスは亀のいる場所を目指す」運動が始まり、その運動は「その場所にたどり着いたとき」完結する。そして、それは3回目の運動の始まりを意味する。このような運動が繰り返されるその都度、アキレスと亀の距離は縮まるが、それは決してゼロになることはない。これがその運動の本質である。ゼノンは1回目の運動、2回目の運動、3回目の運動というように運動を観念的に分割する。

だから観念的に分割された運動を前提に、亀は常にアキレスの前方にいるという主張は論理的に正しい。しかしその前提の下で、アキレスは亀に追いつくことができないと主張することは無意義である。なぜならそこでは「追いつく」という言葉が無意義となっているからである。普通、人は運動というものを連続的に把握している。すなわち「追いつく」という言葉を、経験から次のように理解している、「追う者と追われる者の間の距離が時間の経過とともに徐々に短くなり、最終的にそれがゼロになることである」と。しかしゼノンは「時間の経過」という連続性をもつ常識的概念の代わりに、「分割された運動の繰り返し」という不連続性をもつ概念を用いることによって、追う者と追われる者の間の距離が最終的にゼロになることを論理的に否定した。

それは「追いつく」という言葉の常識的意味を否定することを意味する。かといってゼノンは「追いつく」という言葉に独自の定義を与えることもしない。つまりゼノンの結論、すなわち「アキレスは亀に追いつくことができない」において「できない」とされることが何であるのかは明らかではないのである。したがってその結論は何も言っていないのと同然であり、無意義である。
「分割された運動」をいくら繰り返しても、「亀は常にアキレスの前方にいる」、これは正しい。しかし、この正しい前提から導き出される結論「アキレスが亀に追いつくことは不可能である」は、「追いつく」という言葉を常識的な意味で用いているならば、誤りである。そうでないならば、何も言っていないのと同じで、無意義である。

北野武監督作品「アキレスと亀」オリジナル・サウンドトラック