シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

単位数は量的数である。

高橋誠さんはツイッターで次のような問題提起をしている。

m×n=(1+1+……+1)×n=n+n+……+n=n×m

しかし、この等式変形を、あえて名数に適用してみると、

m銭×n=(1銭+1銭+……+1銭)×n=n銭+n銭+……+n銭=n銭×m

となるではないか。

この問題は単位Uを有する数m(名数、あるいは単位数)をm個の1の和に還元することは可能かという問題と、その1は単位数であるか、すなわち1Uは存在するかという二つの問題に帰着する。まずmUにおけるmは量(大きさ)を表わす数であり、量が多く(n個)存在するというのが、単位数(名数)mと無単位数nの掛け算m×nが表す状態である。

単位数とは単位と観念的に結合した数である。単位は数mをひとつの量を表わす数(量的数)にする。その量的数mを多く(m個)の1の和に還元することは(数学的には可能であるが)、論理的には無意義である。例えば量mUは数学的には有理数(7/2)Uと(3/2)Uに分割することも可能であるが、その可能性は空虚である*1

量的数mは本質的に自然数ではない。というのも量的数は測定値であるからである。そしてmという測定値が自然数なのは、その測定方法が同じ物(例えば1銭玉)を数えることであるからである。この測定方法では測定値は自然数に限定される。そして数える対象は多くの1銭玉であるが、その測定方法で測定された対象は5銭という大きさ(例えば価値)をもつひとつのものである。それは現実には存在しない観念的なもの、すなわち量である。

量mUをn個の1Uの和に還元することは空虚な可能性と言うよりも、非現実的であると言うべきである。数えるという実践は多くの1をひとつにする。そして数えることによって得られた数は単位と結合することによって、ひとつものを観念的に保存する。だからmUは1U+1U+……+1Uではない。そもそも1Uは存在しいないからである。というのも、ひとつの1は、はじめからひとつであり、数えることはできない。存在するのは1Uという量ではなく、単位Uである。

人が数えるとき、例えば具体的に数える対象が1銭玉であるにしても、抽象的・観念的には単位である「銭」である。だから五つの1銭玉を数え終えたとき、5銭である物(5銭玉)は存在しなくとも、人は「ここに5銭ある」と言う。

単位の無い数nは1の和に還元することは可能である。したがってmU×nをn個のmUの和に還元することは可能である。しかし、その場合でも

m×n=m×(1+1+……+1)=m+m+……+m

と記述すべきである。単位を数式の中に持ち込むべきではないからである。

 

*1:人が〔中略〕考察の対象の具体的な諸関係を知ることが少なければ少ないほど、あらゆる空虚な可能性の考察に耽りたがるものであって、〔中略〕理性的で実践的な人間は、それがまさに可能であるにすぎないという理由によって、可能なことなどに心を動かされず、あくまで現実的なものを堅持する。