「健全な批判ってなかなか難しいですよね。ぼくなりの批判の作法について書いてみます」を健全に批判する。
プロブロガー・イケダハヤト流「批判の作法」 : まだ東京で消耗してるの?
ネット上には「敬意なき批判」が溢れています。アホとかバカとか未熟者だとか、まぁその手の罵詈雑言ですね。
その通りです。「アホとかバカとか」はそもそも批判ではなく、たんなる罵詈雑言(あるいは誹謗中傷)です。
イケダハヤトさんは、対象(個人・団体・社会)に投げかけられる否定的言説を区別せずに、一括して「批判」と捉えて論じています。
だからそこには「健全な批判」とそうでない批判しかないことになります。
しかし私は批判と非難、そしてたんなる罵詈雑言誹謗中傷を区別する必要があると考えます。
たんなるたんなる罵詈雑言誹謗中傷は無条件で不当なものです。
これに対して批判は無条件で正当なものである、逆に言えば不当な「批判」は批判ではなく、不当な非難に分類されるべきであると考えます。
正当なものと不当なものに区別されるべきは、批判ではなく非難です。
例えば元少年Aが、かつて自分の起こした事件について手記を出版しましたが、被害者遺族はこの行為を非難しました。
これは正当な非難と言えるでしょう。
これに対して小保方晴子さんを「STAP細胞を捏造した」と非難することは不当です。
小保方晴子さんはそのような事実はないと否定しており、またその事実があることを証明する証拠もないからです。
批判をする際には、相手に対する敬意、リスペクトを持ちましょう。相手は、自分と対等な人格を持った人間です。
これでは軽蔑すべき相手は批判してはならないことになります。
批判とは批判する相手の人格とは無関係に為されるべきものです。
というのも批判の対象は相手の人格ではなく、その人の言説や行動だからです。
仮に元少年Aが出版した本の中で自分の犯罪を正当化しているとしましょう。
これは非難されると同時に批判の対象にもなります。
そのとき元少年Aに対して敬意を持たなければならないのでしょうか。
批判とは「あなたは間違っている」という趣旨の主張ですが、重要なのは、なぜ間違っているのかといことを論理的に説明することです。
そのためにはその本を読み、その内容を正確に理解しなければなりません。
これに対してそうした(論理的な)説明を抜きになされるのが非難です。
殺人を正当化する言説を否定するとき、なぜ殺人行為が間違っているのかという説明は普通は必要ないでしょう(哲学的な論争をする場合なら必要かもしれませんが)。
批判は批判する対象を理解し、その誤りを論理的に説明しなければなりませんが、非難は対象を理解(認識)するだけで十分です。
ただし誤解や誤認に基づく非難は不当なものとなります。
みなさんがぼくを「未知の存在」として捉えてくれれば、ぼくのことばを最大限読み込んだ上で、「ここはどういう意味ですか?私には矛盾しているように思えるのですが、いかがでしょうか?」と「批判」します。ぼくに興味を持って、わからない部分を明らかにしようとしているわけですね。こういう批判には、ぼくは最大限回答します。
「ここはどういう意味ですか?私には矛盾しているように思えるのですが、いかがでしょうか?」いうのは批判ではなく質問でしょう。
この「批判」と「質問」を混同した結果、次のような主張がなされます。
「批判」というか「誹謗中傷」は、そういった興味関心は皆無で、「こいつは所詮この程度だな。そもそも矛盾している。どれ、痛いところをつついてやるか」という、相手をすっかり理解したつもりで行われます。
特に彼らにとっては、「矛盾」は絶対悪であり、最大の攻撃理由になります。全能感に囚われた彼らは、表面的な矛盾の奥底にある洞察や真理に、思いを馳せることはありません。「矛盾している!はい論破!」。ゆえに、彼らの「批判」はお話にならないのです。
まず最初に言っておきたいことは、「こいつは所詮この程度だな」という考えは相手を見下しているものであり、「どれ、痛いところをつついてやるか」というのは、相手に悪意を持つ者の発想だということです。
相手を見下し、あるいは相手に悪意を持つ者が行う誹謗中傷について、それが「相手をすっかり理解したつもりで行われ」ると考えるイケダハヤトさんが理解できません。
そう考えるのは「ぼくを『未知の存在』として捉えてくれ」ないことの不満からでしょうか?
「ぼくのことばを最大限読み込んだ上で」批判せよという主張には、私は傲慢さを感じます。
次に、ある言説の中に「そもそも矛盾している」部分があるならば、その言説が批判の対象になるのは当然です。
それがたとえ「表面的な矛盾」であるとしも、です。
イケダハヤトさんが「そもそも矛盾している」主張をしたとしましょう。
イケダハヤトさんはそれを「表面的な矛盾」にすぎないと考えていますが、そう考えているのはイケダハヤトさんだけかもしれません。
少なくとも私はそうは考えず、その主張は矛盾していると批判したとします。
もしイケダハヤトさんが私の批判を無視するならば、その「奥底にある洞察や真理」はイケダハヤトさんの頭の中だけにしか存在しません。
イケダハヤトさんがそれでいいと思われるならば、それは仕方のないことですが、私はそれはもったいないことだと考えます。
矛盾の「奥底にある洞察や真理」を明らかにすることができないのですから。
批判するという行為は、それ自体非常に傲慢です。批判とは、自分の正しさを主張することであって、相手を「認めない」ことです。他者を傷つける可能性も孕んでいます。批判とは、行為自体が罪悪だといってもよいでしょう。
「批判とは、自分の正しさを主張すること」ではなく、まず相手の誤りを指摘することです。
その上で「正しさを主張する」ことは自由ですが、それができない場合もあります。
何が正しいかはわからない、しかしある主張が誤りであることがわっただけで、その主張に対する批判は成立します。
批判が「他者を傷つける可能性」を孕んでいることは、認めます。
小保方さんはSTAP論文を批判されて、大いに傷ついたようです。
だからといって「批判とは、行為自体が罪悪だといってもよい」とは考えません。
批判しない、あるいは批判的精神を持たない社会ほど恐ろしいものはないと考えるからです。
むやみに「批判」を繰り出す人に対しては、周囲のコミュニティ、市場は冷徹な判断を下します。
批判は無条件で正当ですが、しかし正当な批判であっても、その批判が誤りであるということはあります。
それは批判の対象となっている言説が正しい場合です。
むやみに誤った批判ばかりする人は周囲から相手にされなくなるでしょう。
批判者には、自分が罪を犯しているという自覚と、罪を甘んじて受け入れる覚悟が求められます。自覚と覚悟が欠如した批判は、効力を持ちえません。匿名アカウントの批判を真に受ける人がいないのは、この両方が欠けているからです。彼らは自覚も覚悟もなしに、他人に石を投げつけるだけの存在です。
私が「あなたは間違っている」と批判する者に求める自覚は「自分の方が間違っているのかもしれない」という自覚です。
この自覚があれば、批判した相手からの反論(批判)を冷静に受け止めることができるでしょう。
それは批判者に対してだけ求められる自覚ではなく、言説を世間に対して公表する者すべてに求められるものです。
自分は絶対に正しいと自覚している人間には、他者の批判を冷静に受け止めることができず、批判者に対して感情的になり、不当な非難や誹謗中傷で応えることになります。
理性を欠く(論理的でない)「批判」はもはや批判ではありません。
特に多いのは、相手に対して敬意が持てないパターンですかね。ぼくは人間嫌いでストライクゾーンが狭いので、一度嫌いになるともうほとんどダメです。日々、人を軽蔑しながら生きております。
「ぼくは人間嫌いでストライクゾーンが狭いので、一度嫌いになるともうほとんどダメです」と語るイケダハヤトさんも、批判者に対していささか感情的になっているのではないでしょうか。
もっとも、イケダハヤトさんの場合、感情的になっても、批判者を無視し、軽蔑するだけで、それ以上のことはしないので、何の問題もないのですが。
ただ先に述べたように、イケダハヤトさんの「奥底にある洞察や真理」を知ることができないのは残念です。