シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

本日は彼岸の入りということで、こんな話題をお届けします。

怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ
汝が長く深淵を覗き込む時、深淵もまた等しく汝を覗き込んでいる

これはドイツの作家フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェの小説『善悪の彼岸過迄』の一説である。夏目漱石は翻訳者であるが、日本ではしばしば彼の著作であると誤解されている。

小説は狸が深淵について語ることから始まる。ちなみに狸はSTAPと呼ばれる事件の傍観者であり、この事件を巡る一連の騒動の狂言回しでもある。

深淵とは何か。深淵とは底を見通せない深い闇のことだ。では闇とは何か?

〔中略〕

闇とは不確定性のことなのだと思う。 何があるのか分からない、何があるのか確定していない。その確定していないこと自体が闇だ。

事件の後、ひとりの女性が怪物の餌食になった。その女性の名はハルコ、そして、その怪物の名はマスコミ。マスコミはSTAPの容疑者としてハルコを叩きまくった。そのときマスコミという怪物に敢然と闘いを挑んだのは金木犀であった。

見るもおぞましい怪物と対峙している時、あなたが闇に見出すものは何である可能性が高いだろうか?

十中八九、心に渦巻く恐怖や憎悪や憤怒を闇に映し出すこととなるだろう。そんな状況で暗闇の荒野に進むべき道を切り開くことが出来るのは、ごく一部の強靭な精神力を持つ者だけだ。

怪物と闘う金木犀は、彼女自身が怪物と化さぬよう、次のように忠告を受ける。

だから闇を扱う時は心してかからなければならない。不確定だからこそ、人は闇に自らが見たいものを見出してしまえる。逆を言えば闇に見出された何かは、必ず、それを見出す瞬間の自分自身に規定されてしまっている。

金木犀は怪物にはならなかったものの、「暗闇の荒野に進むべき道」を誤り、リタイアを余儀なくされた(一説によれば後に登場する大法螺が金木犀だという解釈もある)。

金木犀の遺志を継いで立ち上がったのが、おとみさんである。彼女は女医らしく、長らく深淵を観察していた、つまり覗き込んでいた。

そして 最も恐ろしいのは、闇に「見出した」はずの何かを「そこに最初からあった」と錯覚してしまうことだ。この錯覚は人を更なる暗黒の淵に叩き落とすため、最大限の注意を払って回避する必要がある。

おとみさんは深淵の闇を覗くだけで飽き足らず、とうとうそれを呑み込んでしまった。「そこに最初からあった」ものを呑み込んだ以上、それを排泄しなければならない。そしてそれを排泄する場所として彼女が選んだのがブログであった。おとみさんは自分の排泄物、すなわち糞を世界中に曝したわけである。

金木犀の糞とおとみさんの糞。

どちらも不確定性の闇に彼らが「見出した」答えだ。彼ら自身のエゴの投影だ。そして何より恐ろしいのは、彼らが自らのその答えを自分自身が「見出した」ことに気づけていない点だ。彼らは自分の答えを「そこにあった」と錯覚している。

金木犀の糞は「自身のエゴの投影」だとしても(金木犀だけに)いい香りがする。だがおとみさんの糞はウンコ臭いだけだ。その理由は彼女が博士だという事実と無縁ではない。

自分の主観的な解釈だと分かっていれば他者に主観を押し付けないよう弁えることができる。しかし、その答えが自身のエゴとは関係なく、客観的な事実だと思い込んでしまったならば、そうはいかない。

おとみさんは自分の糞(彼女自身のことばを借りれば「推測」)を「客観的な事実だと思い込んで」いるから、その糞は異臭を放つのだ。だが、それだけではない。彼女が深淵を覗き込んでいる、まさにそのとき深淵もまた彼女の覗き込んでいるのだ。そして彼女が深淵の闇を呑み込むとき、闇もまた彼女を呑み込むのだ。闇が呑み込んだおとみさんは排泄され、怪物と化す。怪物とは闇の糞である。闇に呑み込まれ、排泄された闇の糞である怪物、その怪物の糞は怪物並みに臭いのである。

世界中の誰もが、同じ考えを共有しなければならないと思ってしまうだろう。共鳴しない者は、啓蒙するか排除するべきだと思ってしまうだろう。その考えがエゴにまみれた主観的な解釈に過ぎないというのに関わらず。

それが闇に呑まれるということなのだと思う。

闇に飲み込まれ、怪物と化したおとみさんは自らの糞で人々を啓蒙しようとする。そして啓蒙の邪魔になる者(溜池一派)を排除しようとする。だが怪物とは所詮、闇の糞にすぎない。

肝要なのは闇に呑み込まれないようにすることだ。しかし闇はどこにでもある。

どれだけ科学が発展し、どれだけ哲学が真理の追究を押し進めたところで、不確定性の闇は永遠につきまとう。闇とは決して手をきることができない。闇は、うまく付き合っていかなければいけない相手だ。

そして最後に鬘が登場する。彼は闇とうまく付き合った。

人は闇を排除したがる。それはいい。正しい手続きで排除するのであれば。しかし、そこにあるはずの闇に気付いていないだけ、あるいは見なかったことにしただけなのに、「闇なんてないさ」と開き直ってしまうことは危険だと思う。

事件は鬘が「正しい手続きで」ハルコの4件の不正を明らかにすることをもって終わる。それが闇を排除できる限界であった。だからSTAPの闇は残った。この結末に不満を抱く読者は多いであろう。しかし重要なのは闇を排除することではない。

大事なのは、闇を視界から排除することではない。そこにある闇の存在を認識すること、その時、自分が闇を見つめていることに自覚的であること、そして闇を見つめている自分を見つめること(自身が抱えるバイアスを十分に把握すること)だ。

日本には「暑さ寒さも彼岸まで」ということばがある。

闇に何かを見出すこと自体は悪ではない。闇に何かを見出すことを一切止めてしまうなら、あらゆる可能性は閉ざされるし、何も新しいものは生まれてこなくなってしまう。仮説を立てることが許されない世界はどうなってしまうのか想像してみればいい。

仮説なのか妄想なのか、そこに明確な境界線はない。彼岸に入ればその境界線はますます曖昧になる。しかし彼岸を過ぎれば境界線は明確になる。それは論理的であるか非論理的であるかの境界線である。

 

だいたい、彼岸だからといって『善悪の彼岸』と『彼岸過迄』をコラボしようという発想自体が間違っている(しかもパクリだし)。オチのつけようがないではないか。こんな糞みたいな記事に引用された闇に呑まれるということの作者の月郎さんが気の毒である。もう、どうしようもないですね。今、この記事を公開しようか、どうしようか迷ってます。

決めました。公開します。そして後悔します。二度とSTAPには手を出しません。

善悪の彼岸 (岩波文庫)

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彼岸過迄

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