シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

「緑のたぬき」に七味をかける人はいるが、        七味に「緑のたぬき」をかける人はいない。

d.hatena.ne.jp

高橋誠さんの上記記事で私の下記記事にある誤りを指摘していただいた。

giveme5.hateblo.jp

「8×6」を「8に6を掛ける」に対応づけることの合理性として,加減乗除において演算子の右にあたる数を(または「×6」と演算子込みで)オペレータと解釈するのはどうか.具体的には次のように読むことができる:

  • 8+6は,「8に6をたす」*3
  • 8-6は,「8から6をひく」
  • 8×6は,「8に6をかける」
  • 8÷6は,「8を6でわる」

こうしたとき,「8×6」だけ「6に8をかける」と解釈するのは一貫性の観点でメリットが薄い.

まったくその通りである。8×6は「86かける」と解釈すべきである。

個人的には,日本の小学校の算数ではという前提を置いた上で,「8×6」というかけ算の式における左側の数「8」が,かけられる数であり,右の「6」はかける数であると認識している.

しかし、この認識では、(日本では)掛け算の式を記述するとき、掛けられる数(=左側の数)×掛ける数(=右側の数)の順序で記述する習慣があるという主張が無意義(同義反復)となってしまう。

なお算数教育の文献や授業例を読んできた所感として,「定義」という用語は避けたほうが無難である

とご指摘いただいたが、私はあえて定義にこだわってみた。そして次のような定義を思いついた。(日本語の)文章で「掛ける」という語を用いて二つの数を関係させるとき、格助詞「に」が接続する数を「掛けられる数」、格助詞「を」が接続する数を「掛ける数」という、と定義すればどうか。

が、これも、8×6を「8に6を掛ける」と読むという前提があって成立する定義であり、やはり同義反復になってしまう。結局のところ、習慣に従って掛け算の順序が決定されるという前提があって、はじめて掛けられる数と掛ける数を区別する意義が生じるということになる。8×6と6×8、そのどちらでもいい場合(例えば「縦8m、横6mの長方形の面積を求めよ」という問題の場合)両者を区別する意義はない。

さて8×6と6×8では意味が異なる、と言えば式に意味などない、という反論が予想される。だとすれば、なぜ文章(それには意味がある)という形で問題を提起するのか。それは掛け算ができるようになった子供に掛け算の意味を理解させるためである。

高橋さんは掛け算の意味について次のように指摘をしている。

乗法の意味に関して,正比例型・直積型・倍比率型・累加型の4通りを指摘するとともに,「4×8=32となるようなお話をつくってください.そして,そのお話を絵で描いてみましょう」という出題(作問法)において,採点基準に「「乗数と被乗数の意味が区別されているか」(とくに正比例型では「4」は「一あたり量」,「8」は「いくつ分」と区別されているか)」を挙げている.

問題として提出された文章の意味をまったく反映させないで、式を書かせることが教育上、適切な方法だとは私は思わない。ただし式に文章の意味を反映させるということは、あくまでも掛け算の意味を理解させるための手段であって、目的ではない。

順序自由派の人たちは「8個の玉が入った箱が6箱あるとき、玉は全部でいくつあるか」という問題(順序固定型=8に6を掛ける)と「縦8m、横6mの長方形の面積を求めよ」という問題(順序自由型=86を掛ける)を、まだ掛け算の意味を理解していない子供たちに対して(結果的にではあるが)両者を区別するな、同一視せよと主張しているようなものではないだろうか。

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