シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

数と「数学的」単位の自由な結合は必然である。

単位を数学の世界に持ち込むことは論理的には可能である。だが、ヘーゲルは次のように言う。

しかし空虚な悟性の慧眼というものは、可能なこと〔中略〕を、役にも立たないのに考え出して得々としているものである。

小論理学〈下巻〉 (1952年) (岩波文庫)p85

さらに次のようにも言う。

理性的で実践的な人間は、それがまさに可能であるにすぎないという理由によって可能なことなどには心を動かされず、あくまで現実的なものを堅持する。

同p87

「実践的な人間」は単位を数学の世界に持ち込もうとはしない。そのとき「現実的なもの」とは習慣である。では自由派は、なぜ、言語の世界における習慣、すなわち単位は数の後ろに付けるという習慣には従うのに、名数×不名数という習慣に従うことを拒否するのか。思うに、そのような習慣がどこにあるのかが理解できないからだろう。その結果、その習慣があるということに確信が持てずにいる。

数学の世界では、掛ける数と掛けられる数は交換可能である。したがって名数×不名数という習慣があるのは数学の世界ではない。数学の世界で成立する交換法則に「心を動かされ」掛け算の順序の自由を主張する人は、もうひとつの世界、すなわち言語の世界が視野に入っていない。もちろん、今、問題となっている習慣は式を記述する際の習慣であるから、それは言語の世界における習慣ではない(ただし、それは言語に由来する)。

言語の世界と数学の世界、この二つの世界を同時に視野に入れるならば、両者を分つ境界が見えるはずである。名数×不名数という習慣は、この境界における習慣である。境界は世界ではない。それは二つの世界のいずれの世界にも属さない領域であり、したがって二つの世界によって否定的にのみ規定される。数学の世界に持ち込まれなかったが、言語の世界からは持ち出された「数学的」単位もまた、この境界に存在する。

「一皿に5個ずつみかんがはいっているとして、その皿が4皿あるとき、みかんは全部でいくつあるか」、この問題は言語の世界で提起され、数学の世界に持ち込まれる。そのとき、その問題は境界を通過する。「皿」は言語の世界に置き去りにされるが、「個」は境界にまで持ち込まれる。だが、それが境界を突き破り、数学の世界に侵入することは不可能である(この不可能性は論理的不可能性ではない)。

掛け算は境界における習慣に従って5×4と記述される。そして数学の世界で計算式5×4=20が記述される。 この計算の結果である数20を言語の世界に持ち出そうとするとき、それは再び境界を通過する。そのとき数20は境界に存在する「個」と結合する。

問題は両者の結合の仕方である。もし、問われているのはみかんの数であると考えて、みかんの単位である「個」と20を結合させるならば、その結合は機械的である。だが、この機械的作業は両者を分離する時点で終わっている。すなわち単位「個」から分離された数が5であると考える代わりに、(何も考えず)習慣に従って機械的に5×4と記述する。そう記述したのちに、もし何か考えるべきことがあるとすれば、それは、それを4×5と記述することも可能であるということではなく、それを5個×4と記述することは不可能であるということである。 不可能なことはそれだけではない。計算の結果である数20が単位「個」と結合しないこともまた不可能である。すなわち両者の結合は必然である(ただしその必然性は論理的必然性ではない)。

数は言語的単位とは違った仕方で「数学的」単位と結合する。ただ、その結合は論理的ではないため、いくら考えても理解することはできない。しかし、それを把握することはできる。そのためには習慣を身に着けるための訓練が必要である。 数と「数学的」単位の結合は数学的でも、言語的でもない。しかしまた無規定でもない。このようにして人は数と「数学的」単位を自由に結合させる。

最後に自由と必然についてのヘーゲルの主張を引用する。

ここから、自由と必然とを相容れないものとみるのが、どんなに誤っているかがわかる。もちろん必然そのものはまだ自由ではない。しかし自由は必然を前提とし、それを揚棄されたものとして自己の内に含んでいる。有徳な人は、その行為の内容が必然的でありかつ即自対自的に妥当するものであることを意識しているが、しかもこのことは、かれの自由を少しも傷つけるものではなく、むしろそれによってはじめてこの意識は、まだ無内容で単に可能的な自由としての恣意とはちがった、現実的で内容のある自由となるのである。

同p116

掛け算の順序自由派が提唱する自由は「まだ無内容で単に可能的な自由としての恣意」に他ならないということができる。

小論理学〈上・下〉 (1978年) (岩波文庫)