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シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

「ウィトゲンシュタインのパラドックス」というクリピキの捏造

ウィトゲンシュタイン

ウィトゲンシュタインは『哲学探究』第201節で次のように述べている。

 われわれのパラドクスは、ある規則がいかなる行動のしかたも決定できないであろうということ、なぜなら、どのような行動のしかたもその規則と一致させることができるから、ということであった。 

ウィトゲンシュタイン全集 8 哲学探究

クリピキはこの部分を引用した後、次のように述べる。 

おそらくこの「パラドックス」は、『探究』の中心問題である。 

ウィトゲンシュタインのパラドックス―規則・私的言語・他人の心

これがクリピキの捏造である。なぜ捏造と呼ぶのか。それはウィトゲンシュタインがそのようなパラドックスを是認していなかったからであり、しかもそのことをクリピキは理解していながら、あえてその「パラドックス」をウィトゲンシュタインが提起した問題であるかのように記述しているからである。このことはクリピキが引用しなかった第201節の続きを読めば誰の眼にも明らかである。 

 ここに誤解があるということは、われわれがこのような思考過程の中で解釈に継ぐ解釈をおこなっているという事のうちに、すでに示されている。あたかもそれぞれの解釈が、その背後にあるもう一つの解釈に思い至るようになるまで、われわれを少なくとも一瞬の間安心させてくれるかのように。言いかえれば、このことによって、われわれは、〔規則の〕解釈ではなく、応用の場合に応じ、われわれが「規則に従う」と呼び、「規則に叛く」と呼ぶことがらのうちにおのずから現れてくるような、規則の把握〔のしかた〕が存在することを示すのである。 

それゆえ、規則に従うそれぞれの行動は解釈である、と言いたくなる傾向が生ずる。しかし、規則のある表現を別の表現でおきかえたもののみを「解釈」と呼ぶべきであろう。 

 つまりウィトゲンシュタインは「ある規則がいかなる行動のしかたも決定できないであろうということ、なぜなら、どのような行動のしかたもその規則と一致させることができるから、ということ」が誤解であると主張しているのである。規則は行動を決定するが、しかし規則の解釈はそうではない。なぜなら規則の解釈は、人に規則に従っているという安心感を与えることはできても、規則そのものを支えることはできないからである。

このことは『探究』第198節で次のように述べられている。 

 「しかし、わたくしがこの情勢でどうしたらいいのか、規則はどのようにわたくしに教えることができるのか。わたくしが何をしようと、それは何らかの解釈を通じて規則に合致している。」――いや、そう言うべきではない。むしろ、それぞれの解釈は解釈されること共々に、空中にひっかかっていて、後者を支えるのに役立ちえない、ということなのだ。解釈だけで意味が決まらないのである。 

 クリピキは68+57=5が加法の規則に従っていることを保証する規則の解釈を提案した。それは以下のようなものである。

(X,Yがともに57より小さい場合)   X⊕Y=X+Y

(それ以外の場合)   X⊕Y=5

すなわち「+」で示される計算(プラス)は「⊕」で示される計算(クワス)の特殊な事例であると解釈したのである。そして確かにクリピキの言う通り、この解釈が誤りであることを論理的に主張することは不可能である。だからこそ規則の解釈は「いかなる行動のしかたも決定できない」のである。というのも論理的に誤りでない、しかし恣意的なクリピキの規則の解釈が、ある人の行動を決定するならば、他の恣意的な規則の解釈もまた他の人の行動を決定するであろう。すなわち規則の恣意的な解釈は一般に人の行動を決定しないであろう。クリピキの規則の解釈は理解されても、受け入れられることはないであろう。すなわち規則の恣意的な解釈は(規則の解釈として)妥当ではないと理解されるであろう。

規則の解釈の「把握〔のしかた〕」は「理解」である。人は、それを理解し、そして規則の解釈として妥当であるか否かを判断する。しかしウィトゲンシュタインの主張、そして『探究』の中心的問題(のひとつ)は、規則には「理解」とは異なる「把握〔のしかた〕が存在する」ということである。それは「われわれが『規則に従う』と呼び、『規則に叛く』と呼ぶことがら」によって示される。

そのことは、人は規則を理解していなくとも、規則に従うことが可能であるということからも明らかである。例えば日本人の子供は、日本語を話す際に従うべき規則(の解釈)、すなわち日本語の文法を理解していないけれども、日本語を話すことができる。

では人は規則を理解せずに、いかにして規則に従うことができるのか。第198節において、この問に対してウィトゲンシュタインは次のように語る。

  「そうすると、わたくしが何をしようと、それは規則に合致しているのか。」――わたくしは尋ねたい、規則の表現――たとえば道しるべ――はわたくしの行動とどういう関わりがあるのか、どのような種類の結合がそこで成り立っているのか、と。――おそらく、わたくしはこの記号に一定のしかたで反応するよう訓練されているから、こんどもそのように反応する、ということであろう。 

しかし、それでは、あなたは単に因果的関連を述べたにすぎず、われわれがいま道しるべに従っているようなことがどのように生じてきたのかを説明していない。いや、そうではない。わたくしがまたさらに暗示したのは、人はある恒常的な慣用、ある習慣のあるときに限って道しるべに従う、ということなのである。 

 まず規則に従うには訓練が必要である。しかし訓練だけでは十分ではない。訓練だけでは規則は「把握」できない。そしてウィトゲンシュタインは規則を「把握」するということが、どういうことなのかを「説明していない」。ただ「人はある恒常的な慣用、ある習慣のあるときに限って」規則に従う、という暗示を与えているだけである。