シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

永い言い訳

さて、今回はシシドカフカさんについて書こうと思う。だが、その前に一言、言っておかなければならないことがある。それは永らくブログを更新しなかったことの言い訳である。しかし、その前に解明しておかなければならない問題がある。それは、私は本当に言い訳をしなければならないのだろうかという問題である。そもそも言い訳とは、自分に非があることを前提としつつ、しかし、その責任を少しでも軽くしようとするために行うものである。

では、私が私のブログを更新しなかったことについて、私に非はあるのか。否、断じて否である。もし仮にこのブログが、例えば週1回更新することを約束し、かつ読者に有料で配信されているならば、私は債務を履行しなかったことになり、その責任を負うべきである。しかし私はそのような約束をした覚えはなく、またこのブログは有料でもない。したがって私は何ら債務を負っていないのであり、負っていない債務を履行しないからといって、その責任を問われる筋合いはない。

だが、しかしである。世の中には道義的責任というものがある。このブログを日々、覗きに来て「ああ、今日も更新されていないな」と嘆いた人が一人もいないとは限らない。もし、そのような人がいたとして、私はその人に対して道義的責任があるのではないか。まして例のウイルスが世間を騒がせている昨今、もしかして私がもうこの世にはいないのではないかと胸を痛めた人がいないとは限らない。だとしたら、そのような人に対して一言あってしかるべきである。

だが、しかしである。本当にそのような人がいるのであろうか。もし私が今回の記事の冒頭で「みなさん、永らく更新を怠り、申し訳ありませんでした。私はいつも通り元気でやっておりますので心配しないでください」と書いたとしよう。読者は「何、こいつ、自意識過剰じゃねえか。誰もお前のことなんか心配してねぇよ」と思うに違いない。だとしたら何事もなかったかのように、しれっとブログを再開するに越したことはない。実際、何事もなかったのであるから。

だが、しかしである。では何事もなかったのに、なぜブログを長期間にわたって放置してきたのか。ここへきて、やっと言い訳が始まろうとしているわけである。つまり私の言い訳は私の責任を軽減することを目的としたものではなく、「なぜ、私はこれまでブログを放置してきたのか」という謎を解き明かすことを目的とするものなのであるる。

さて、その言い訳であるが、ここへきて文字数が千字近くになってきた。永い言い訳になるので、今回の記事でそれを書くことはできなくなってしまった。そういうわけで言い訳は次の記事で書くことにする。乞うご期待。

永い言い訳 (文春文庫)