割り切れない感じ
『忠臣蔵』に何かしら割り切れない感じを抱くのは私だけだろうか。
吉良コーズケノスケは、世間で言われるような悪人だったとしても仮にも傷害事件の被害者である。
その加害者である浅野タクミノカミの身内が被害者に仇討するのはどうなんでしょうか。
そもそもタクちゃんを死に追いやったのは、ショーグン・綱吉である。
復讐する相手はコーちゃんではなく、ショーちゃんでしょ。
でもショーちゃんを相手にするのはしんどいから、コーちゃんで手を打ちましょう、
「そんなわけで殺されちゃいました」感がする『忠臣蔵』なのである。
しかし割り切れない感じの本当の原因は別にあったのである。
それは萱野三平である。
彼が生きていれば討ち入りに参加したことは間違いない。
そうすれば赤穂浪士は47士ではなく、48士になっていた。
47と48、たった1しか違わないではないか、という人もいるであろう。
だが前者と後者ではマクシム・ゴーリキーと剛力彩芽ほどの違いがある。
47は何を隠そう
素数である。
割り切れない感じがする、どころの騒ぎではない。
実際にどんな数字でも割り切れないのだ。
これに対して48は2でも、3でも、4でも、6でも、8でも、12でも、16でも、24でも割り切れる素敵な数なのである。
ちなみに、この「素敵な数」から「敵な」を除くと素数になるのであるが、なぜそうなるかは現在の数学ではまだ解明されていない。
8で割り切れるということは、バレーボールのチームが8チーム作れるということである。
高校野球選手権には及ばないが、同じ兵庫県で赤穂バレーボールトーナメント選手権を開催するのに十分なチーム数である。
4で割り切れるということは12使徒が4チーム作れるということであり、
それはキリストの教えを東西南北に広めることができたということである。
そして何より48であれば、センターを大石内蔵助として
AKO48
が結成できたのである。
残念。