シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

皮肉から考える「学の意見」

まず皮肉骨髄から考える「人の意見」から引用させて頂きます。

元々皮肉という言葉は、達磨大師が弟子に対して行なった最終試験の逸話が元となっています。
知っている人は知っているような話ですが、「僕が伝えたかったことは何か、それを示してみなさい」をいう最終試験で、4人の弟子がそれぞれ異なったアプローチで回答をし、「君は私の皮を理解している、合格!」「君は私の肉を理解している、合格!」「君は私の骨を理解している、合格!」「君は私の髄を理解している、合格!」と言った感じで全員合格となりました。
最初の三人はバラバラのことを言いながら合格し、最後に回答した弟子なんかは沈黙を続けているだけで「合格!」ということになったという感じです。

で、達磨大師は、最後の、何も答えずに沈黙した人を自分の後継者として指名したそうです。この「皮肉骨髄」の逸話には色々な解釈が可能ですが、私はウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の次の一節を思い出しました。

語りうること以外は何も語らぬこと。自然科学の命題以外は〔中略〕何も語らぬこと。そして誰か形而上学的なことを語ろうとするひと人がいれば、そのたびに、あなたはその命題のこれこれの記号にいかなる意味も与えていないと指摘する。これが、本来の正しい哲学の方法にほかならない。この方法はそのひとを満足させないだろう。〔中略〕しかし、これこそが、唯一厳格に正しい方法なのである。論理哲学論考 (岩波文庫)p148

ま、ウィトゲンシュタイン自身はこの主張を撤回して、晩年に『哲学探究』を著していますが、それはそれとして、達磨大師は三人の弟子がそれぞれに形而上学的なことを語っているのを聞いて「おまえは、そのことばにいかなる意味も与えていないのだ」と指摘することもできたのですが、ひとつには面倒だから、もうひとつにはそんなことを言って弟子たちから、きらわれるのは嫌だから、四人とも合格にしたというのが、私の解釈です。つまり達磨さんは本音では、何も語らなかった(髄を理解した)弟子だけを合格にしたかったのですが、気の小さい達磨さんにはそれができず、次善の策としてその弟子を後継者に指名することで、「おまえは他の合格者とは違うんだぞ」ということを示したのです。

話はごろりと変わって酸浴でOct4-GFPが光る現象について何かしらの意味は見出されてはいませんと主張するハンドルさんに対して学とみ子さんは次のように反論します

ハンドルさんは全く意味をみつけないというだけですが、STAP支持する人たちは意味を見出しています。

この意味がどのような重みをもつか、生物学を少しでも知識を持ち合わせる人であることが必要でしょうね。

この二番目の文章、理解に苦しみますね。「この意味がどのような重みをもつのか、 少しでも生物学の知識があれば、理解できるはずです」あるいは「この意味がどのような重みもつのか、それを理解するには相当な生物学の知識が必要です」のいずれかの文章ならば、理解できるのですが、なんか、その中間に位置するような文章なので、何だかな~という感じですが、それはそれとして、STAPを支持する学さんは、酸浴でOct4-GFPが光る現象にどのような意味を見出したのでしょうか、という質問は野暮ですね。髄を理解している学さんには沈黙するしかないんですよね。つまり、その現象は、もはや自然科学の領域ではなく、形而上学の領域に属するものであるというのが学さんの意見なんですね。まさに目から鱗とはこのことです。学さんのブログは大変勉強になります。合掌。

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達磨さんは顔に似合わず、気が小さい。