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シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

ネタがない、しかたないから武田邦彦教授を批判する。

なぜ、いま武田教授批判なのか? 疑問に思う読者も多いはずだ。私も同じ思いだ。すでに賞味期限切れの話題だ。まったく気乗りがしない。それでもブログを更新するために、あえて教授を批判する。

小保方さんは博士論文で剽窃(盗用ともいう)を行った。この剽窃行為を世間では「コピペ」と呼んだ。だから教授は「コピペは良いことか、悪いことか?」と問題提起した。blogos.com

ネット社会になり、どこかにあるものをコピペ(コピーアンドペーストの略。あるページをコピーして、それをパソコンで貼り付けること)する文化が一般的になっている。これは良いことだろうか、悪いことだろうか?

コピペは便利である。一般に便利なことは良いことだが、必ずしも良いことばかりではない。ある大学教授が学生にレポートを手書きで提出するように要求するという話を聞いたことがある。学生にコピペさせないためだが、しかし、手書きでも他人の文章を剽窃することはできる。だが、その教授は「手書きの場合、剽窃の対象となる文章が頭に入るので、それだけでもコピペよりはまし」と考えているようだ。

要はコピペは他人の論文を自分の論文に転載するときの手段にすぎないのであって、その良し悪しを論じること自体には何の意義もない。是非を論じる対象は転載 である。そして結論から言えば、剽窃は悪いことだが、引用はそうではない、である。

武田教授の間違った主張は知的財産を誤解することから始まる。

1)創造的活動、2)自然の法則又は現象であって、産業上の利用可能性があるもの、であることがわかる。自然科学(理学や工学)には創造的活動はない(注1)ので、2)だけになる。

知的財産基本法はその他の知的財産を「人間の創造的活動により生み出されるもの(発見又は解明がされた自然の法則又は現象であって、産業上の利用可能性があるものを含む)」と規定している。すなわち「創造的活動により生み出されるもの」の中には「発見又は解明がされた自然の法則又は現象であって、産業上の利用可能性があるもの」が含まれることを明示している。また同法は「『知的財産権』とは、特許権実用新案権、育成者権、意匠権著作権、商標権その他の知的財産に関して法令により定められた権利又は法律上保護される利益に係る権利」と規定している。 

自然科学に関する著作物も「人間の創造的活動により生み出されるもの」なのである。ところが教授の理解では自然科学の論文等は「人間の創造的活動により生み出されるもの」ではないことになっている。どうすればそんな誤解ができるのか、全く不思議だ。

さらに教授の理解によれば、「非創造的活動」の成果は特許権の対象にはなり得ても、著作権の対象にはならないらしい。法律で「知的財産権」には著作権が含まれると規定されているにも関わらず、である。

著作権法著作物をいくつか例示しているが、その筆頭に「小説、脚本、論文、講演その他の言語の著作物」(第10条)を挙げている。そのことを知らない教授は

そしてそれは何かを書いてネットに出したり、学会の論文として提出しただけではダメだ。

なにしろ「権利」だから、1)権利を主張するのか、2)権利の範囲を示す、必要があり、特許庁に自分の権利を主張する。その時に「権利の範囲」と「産業上の利用可能性」をはっきり書かなければならない。

と主張する。しかし 著作権法は「著作権の享有には、いかなる方式の履行をも要しない 」と規定している。著作権という「権利を主張する」ために 「いかなる方式の履行をも要しない 」のである。著作権著作物の完成と同時に自然発生するのであり、したがって「ネットに出したり、学会の論文として提出した」りすること自体が、すでに著作権(公表権)の行使なのである(特許にも同様の権利として「特許庁に自分の権利を主張する」権利、すなわち特許を受ける権利がある)。

学会に提出した学術論文には著作権はなく(創造物ではないから(注1))、権利の範囲が明確ではないから特許権もないということだ。だから、コピペは自由と言うことになる。

問題にすべきは合法的無断転載(引用)と違法な無断転載(剽窃)の二つであり、その手段としてのコピペはどうでもいい問題である。

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 私も若いころに先生から「村の掟」を教えていただいたので、他人の文章を使うことは許されない、引用するときにはできれば本人の了解を得、できなくても引用元を示すということを徹底的にやってきました。

教授が引用(合法的無断転載)と剽窃(違法な無断転載)を混同していることがわかる文章である。引用の条件を満たしているならば、すなわち「公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるもの」であれば、ならば「本人の了解」なしに無断で転載できる。

ところが、50歳ぐらいから少しずつ疑問を感じてきました。まず第一には「知的なもので創造性がなければ、人類共通の財産と言うことになっている」と言うことを知ったこと、(中略)、「「引用する」というのは、論文を出した人への敬意か、それとも読者の参考になるためか?」という疑問が次々と生まれてきたからです。

知的財産は(創造性があろうと、なかろうと)「人類共通の財産」であり、だから著作権法は「文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的」として制定された。一方では「文化的所産の公正な利用」として引用を認め、他方では「著作権者の権利の保護」のために剽窃を認めないのである。

「「引用する」というのは、論文を出した人への敬意か、それとも読者の参考になるためか?」この疑問には簡単に答えられる。「読者の参考」のためである。現に私は教授に対して一片の敬意も払っていないのに、こうして教授の文章を引用している。また剽窃が原著者への敬意を欠く行為であることは間違いない。

私はこの際、コピペ自由と言うことにして、引用しても良いぐらいにすると、「いったい、科学的な発見は誰のものか」がはっきりしてくると思います。

学問は「コピペはいけないに決まっている!」と言ってよいほど、厳密でなくても良いのでしょうか?

 「コピペ自由と言うことにして、引用しても良いぐらいにする」ということが何を意味するのか理解できないが、引用するに際してコピペという方法を取るか否かは個人の自由である(普通はコピペですますだろうが)。ただ引用文献が紙媒体の場合はコピペは不可能である、それだけの話である。

学問において「引用はいいに決まっている!」と言わなくていいほど、引用は当たり前に行われている。問題は引用の作法をきちんと身に着けること、それだけだ。

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愛知大学の時実象一教授は著書「図書館情報学」(2009)の中で、「学術論文に掲載されている事実やデータには著作性が無いと考えてよい」と記載している。また、大阪高裁は2005年4月28日の判決で、「実験結果の記述は誰が書いても同じような記述になると考えられる」として学術論文の創作性を否定した判例を出している。著作権に関する最高裁の判決も「創造性のあるものに限る」としている。

 「著作性が無い」からといって「著作権が無い」とは言えない。「学術論文の創作性を否定した」からといって「学術論文の著作権を否定」したことにならない。「著作権に関する最高裁の判決」については、その判決文が不明なので何とも言えない。

特に学問と言うのはじっくりと「自分と考えの違う人のことを聴く」ことにある。学問の世界にいる人、日本のために、若い人のために、勇気をもって声を上げてください。

私は「自分と考えの違う人」の、すなわち教授の書かれたことを、さらっと読んだ。そして声を上げて言う、「問題はコピペにあるのではない、引用か剽窃か、それが問題なのだ」と。そして引用は合法、剽窃は違法である。もっとも著作権の侵害は親告罪なので被害者(著作権者)の告訴が無ければ罰せられることはない。しかし罰せられないから、やっていいという発想は善くない。それ以前に引用の作法を知らなかった小保方さんは学者としての常識が無いというほかない。それを擁護する教授に至っては、開いた口がふさがらない。武田教授がなぜ教授でいられるのか、実に不思議だ。