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シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

『雪渡り』~宮澤賢治が仕掛けた「罠」~(後編)

四郎とかん子が幻燈会へ出かけようとするとき、次兄に声をかけられる。

「お前たちは狐のとこへ遊びに行くのかい。僕も行きたいな。」と云いました。
 四郎は困ってしまって肩をすくめて云いました。
「大兄さん。だって、狐の幻燈会は十一歳までですよ、入場券に書いてあるんだもの。」
 二郎が云いました。
「どれ、ちょっとお見せ、ははあ、学校生徒の父兄にあらずして十二歳以上の来賓は入場をお断わり申し候、狐なんて仲々うまくやってるね僕はいけないんだね。仕方ないや。お前たち行くんならお餅を持って行っておやりよ。そら、この鏡餅がいいだろう。」
 四郎とかん子はそこで小さな雪沓をはいてお餅をかついで外に出ました。
 兄弟の一郎二郎三郎は戸口に並んで立って
「行っておいで。大人の狐にあったら急いで目をつぶるんだよ。そら僕ら囃してやろうか。堅雪かんこ、凍み雪しんこ、狐の子ぁ嫁ぃほしいほしい。」と叫びました。

この物語に兄弟と妹は登場するが、彼らの両親については登場しないだけでなく、一切の言及がない。そのため普通に両親がいると考えてしまう。しかしそう考えたとしても、両親が登場しない状況で「大人」に分類された兄たちは保護者的役割を担っていると読み取ってしまう。そして作者はわざわざ、幻燈会は無条件で十二歳以上の入場を制限しているのではなく、生徒の父兄であるならば十二歳以上でも入場を許可しているという設定にしているのである。入場券の説明書きを読んだ二郎が本当に幻燈会に行くつもりがあるなら、例えば「僕は十二歳以上だが、父兄の代理として入場できるな」などと言うのが自然ではないか。それなのに二郎は、あっさりと「僕はいけないんだね」と納得してしまう。まるで、はなから行く気がないようである。その前の「狐なんて仲々うまくやってるね」という言葉も意味深長である。
さて「兄弟の一郎二郎三郎は戸口に並んで立って」四郎とかん子を見送る。一夜だけの幻燈会に行くだけにしては兄弟総出での見送りは大げさである。まるで出征兵士の見送りである。
また餅は四郎が自主的に持って行こうとしたのではなく、兄が持たせたという点についても注意喚起しておこう。
幻燈会に到着した四郎は、紺三郎に挨拶する。

「この間は失敬。それから今晩はありがとう。このお餅をみなさんであがって下さい。」
 狐の学校生徒はみんなこっちを見ています。
 紺三郎は胸を一杯に張ってすまして餅を受けとりました。
「これはどうもおみやげを戴いて済みません。どうかごゆるりとなすって下さい。もうすぐ幻燈もはじまります。私は一寸失礼いたします。」
 紺三郎はお餅を持って向うへ行きました。
 狐の学校生徒は声をそろえて叫びました。
「堅雪かんこ、凍み雪しんこ、硬いお餅はかったらこ、白いお餅はべったらこ。」
 幕の横に、
「寄贈、お餅沢山、人の四郎氏、人のかん子氏」と大きな札が出ました。狐の生徒は悦んで手をパチパチ叩きました。

私の祖母はご飯が炊きあがると,必ずそれを神棚にお供えしていた。現代では神棚がある家など、ほとんどないだろうし、またそれ程、信心深い人も珍しいだろう。しかし年に一度、神に餅を供えるという風習は現代でもまだ廃れてはいない。そう、正月に飾る鏡餅のことである。
紺三郎は四郎が受け取った餅を、その場で皆に分け与えるのではなく、一旦、会場に飾ることにした。まるでお供えであるかのように。しかもその横には札が立てられ四郎とかん子の名前が書かれている、「人の四郎氏、人のかん子氏」と。四郎とかん子の名前の頭に、あえて「人の」とつける意味は何なのか。さらに四郎とかん子は餅を運んできただけで、寄贈者ではない。本当の寄贈者は彼らの兄たちである。
幻燈会は紺三郎の開会の辞で始まる。

「今夜は美しい天気です。お月様はまるで真珠のお皿です。お星さまは野原の露がキラキラ固まったようです。さて只今から幻燈会をやります。みなさんは瞬やくしゃみをしないで目をまんまろに開いて見ていて下さい。
 それから今夜は大切な二人のお客さまがありますからどなたも静かにしないといけません。決してそっちの方へ栗の皮を投げたりしてはなりません。開会の辞です。」
 みんな悦んでパチパチ手を叩きました。そして四郎がかん子にそっと云いました。
「紺三郎さんはうまいんだね。」

かん子は歌うことはあっても、自分の意見を言うことはない。彼女は物語において徹頭徹尾、主体性の欠如した存在として描かれている。紺三郎は弁が立つという四郎の意見についても返事をしない。
そして物語は、いよいよクライマックスを迎える。

 笛がピーと鳴りました。
『お酒をのむべからず』大きな字が幕にうつりました。そしてそれが消えて写真がうつりました。一人のお酒に酔った人間のおじいさんが何かおかしな円いものをつかんでいる景色です。
(中略)
可愛らしい狐の女の子が黍団子をのせたお皿を二つ持って来ました。
 四郎はすっかり弱ってしまいました。なぜってたった今太右衛門と清作との悪いものを知らないで喰べたのを見ているのですから。
 それに狐の学校生徒がみんなこっちを向いて「食うだろうか。ね。食うだろうか。」なんてひそひそ話し合っているのです。かん子ははずかしくてお皿を手に持ったまままっ赤になってしまいました。すると四郎が決心して云いました。
「ね、喰べよう。お喰べよ。僕は紺三郎さんが僕らを欺(だま)すなんて思わないよ。」そして二人は黍団子をみんな喰べました。そのおいしいことは頬っぺたも落ちそうです。狐の学校生徒はもうあんまり悦んでみんな踊りあがってしまいました。

この描写から、「場の空気」によって追い詰められた二人が、やむを得ず団子を食べたと解釈したくなる。しかし、この解釈によれば四郎は食べることを強制されたことになり、仮に団子が真正のものであっても、そこに四郎と紺三郎の信頼関係が生まれる素地はない。
太右衛門らが得体のしれない物を食べたのを写真で見て、四郎は黍団子を食べることを躊躇する。では紺三郎は何のためにそんな写真を見せたのか、四郎は考える。そして、もうひとつ紺三郎が見せたもの、飾られた餅の横に立てられた札に書かれた「お餅沢山、人の四郎氏、人のかん子氏」に改めて目をやる。そして、その意味を悟る。兄たちが「寄贈」したのは餅だけではなかったのだ、と。
四郎は自分に課せられた苛酷な運命を受け入れることにした。だが、かん子をどうする。自分だけが団子を食べれば、主体性のないかん子は選択することはできない。だが、かん子にも、もはや帰る場所はないのである。だから覚悟を決めた四郎はかん子に向かって言う、「ね、喰べよう。お喰べよ。僕は紺三郎さんが僕らを欺すなんて思わないよ。」
これは、ある意味では本心である。紺三郎が捏造写真を見せたのは、団子を食べる前に四郎に考える時間を与えるためである。考えた結果、四郎は自分の置かれている状況、そして団子を食べればどうなるかを理解した。だから四郎は騙されて団子を食べるわけではない。また強制されて食べるわけでもない。自分の運命を受け入れるという自由意思によって食べることを決意したのである。
そして幻燈会が再開される。

笛がピーとなりました。
わなを軽べつすべからず』と大きな字がうつりそれが消えて絵がうつりました。狐のこん兵衛がわなに左足をとられた景色です。
(中略)
 四郎もかん子もあんまり嬉しくて涙がこぼれました
笛がピーとなりました。 
絵が消えて『火を軽べつすべからず』という字があらわれました。それも消えて絵がうつりました。狐のこん助が焼いたお魚を取ろうとしてしっぽに火がついた所です。

最初の写真のわかりやすいタイトル「お酒をのむべからず」と比較して、「わなを軽べつすべからず」「火を軽べつすべからず」という二つのタイトルは実に奇妙である。まず絵とそのタイトルの関連が不明である。なぜここで「軽蔑」という語が登場するのか、さっぱりわからない。
そもそも「軽蔑」の対象となるのは人(人格を有する者)である。そこで軽蔑すべきでない者とは、「罠を仕掛けた者」と「火をつけた者」であると考えみよう。両者に共通するのは狐に危害を与えているという点である。相違点は「罠を仕掛けた者」は故意に危害を加えているのに対して、「火をつけた者」はそうではないという点である。火をつけたのは魚を焼くためであって、狐にやけどを負わせようという意図はない。
こうして二つのタイトルからひとつの命題が導き出される。それは、故意であるか否かを問わず、他者に危害を加える者を軽蔑すべきではないという命題である。
しかし、この命題も依然、意味不明である。常識的に考えれば、少なくとも故意に危害を加えようとするものは軽蔑されてしかるべきであろう。とすれば「軽蔑すべからず」という言葉は反語的な意味で用いられていると考えることができる。
他者を害する者を「軽蔑すべからず」との主張は、では彼らは尊敬されるべきだと言いたいのか。もちろん否である。罠を仕掛けたのも、火をつけたのも、「だらしのない大人」の人間である。軽蔑されるべきでない者とは同時に尊敬することもできない。他者を害する者は尊敬できない、そのような命題なら理解可能である。
では尊敬すべきは、どのような者なのか。そう、他者ではなく自己を害する者である。
そして自己を害する者とは、団子の正体を知りながら、あえてそれを食べた「しっかりした子供」、四郎のことである
こうして「無事」に幻燈会は終わる。

「みなさん。今晩の幻燈はこれでおしまいです。今夜みなさんは深く心に留めなければならないことがあります。それは狐のこしらえたものを賢いすこしも酔わない人間のお子さんが喰べて下すったという事です。そこでみなさんはこれからも、大人になってもうそをつかず人をそねまず私共狐の今迄の悪い評判をすっかり無くしてしまうだろうと思います。閉会の辞です。」

紺三郎は四郎(とかん子)を「賢い」と称賛する。しかし、通説の解釈からは、四郎を賢明だとする理由は見当たらない。逆に愚かだとする理由なら見つけることができる。それは四郎が、かん子に言った言葉「僕は紺三郎さんが僕らを欺すなんて思わない」である。一流の詐欺師は皆、人を欺くように思われないよう細心の注意を払っているものである。何の根拠もなく紺三郎を信じた四郎は愚かというべきであろう。
しかし四郎は賢明であった。彼は自分置かれた状況を悟ったのであるから。
そして紺三郎と二人の子供の別れのときが来る。

紺三郎が二人の前に来て、丁寧におじぎをして云いました。
「それでは。さようなら。今夜のご恩は決して忘れません。」
二人もおじぎをしてうちの方へ帰りました。

普通、招待された方がまず謝辞を述べるのに、逆に紺三郎のほうが「今夜のご恩は決して忘れません」と大仰な言葉を述べる。
これに対して二人は返事をしない。ここで四郎とかん子はすでに死んでいることが暗示される。団子は頬っぺたが落ちるほどおいしい真正の黍団子であったが、しかしそれには致死性の毒が盛られていたのである。
では、四郎とかん子はいつ死んだのか。それは幻燈『わなを軽べつすべからず』が終わったときである。そのとき「四郎もかん子もあんまり嬉しくて涙がこぼれました」とある。賢治は浄土真宗の影響を強く受けていたといわれている。浄土真宗においては、死は浄土で生まれ、ただちに(阿弥陀様の力によって)仏と成ることを意味する。だから死は本人にとっては決して不幸なことではない。それどころか、涙が出るほど喜ばしいことであると言っても過言ではない。
さて、ここで『雪渡り』についての私の解釈の全体像を示そう。狐は神の使いである。紺三郎は神の使いとして大人たち(四郎とかん子の兄たち)に四郎とかん子をお供えとして神に捧げることを要求し、兄たちはこれを了承した。四郎とかん子は人身御供だったのである。紺三郎が欲しかったのは嫁ではなく、神に捧げる人間であった。だから四郎とかん子は地上における神の領域である森の中で死ななければならなかった。だが紺三郎は、一度はそれに失敗する。
そこで紺三郎は幻燈会という催しを計画する。もちろん兄たちは、この計画を事前に知らされている。四郎とかん子が幻燈会に行けば、彼らは二度と生きて家に帰ることはない。彼らは死後の世界(神の住む世界)へと旅立つのだから、兄たちが総出で彼らを見送ることは当然である。
一方で紺三郎は四郎に情が移り、彼が何も知らずに死ぬことを不憫に思うようになる。そこであえてお供えの餅の横に「お餅沢山、人の四郎氏、人のかん子氏」と書いた札を立て、彼らが人身御供になっていることを知らせようとする。
紺三郎は四郎に賭けたのである。四郎は聡明であるから、真相を知っても、決して幻燈会から逃げ出すようなことはしない、紺三郎はそう信じた。信じたのは四郎ではなく、紺三郎であった。そして四郎とかん子は団子を食べた。紺三郎は団子を食べる四郎の様子に諦観を見てとり、四郎がすべてを知ったうえで、団子を食べたと確信した。だから閉会の辞において、四郎とかん子に心からの敬意と感謝の念を述べた。それは閉会の辞であると同時に、死者への追悼の辞でもあった。
神の使いである紺三郎は、神と人間の中間に位置する存在である。狐である紺三郎は人間ではないが、人情はもっている。そして「今夜のご恩は決して忘れません」という言葉は紺三郎の人間的側面から発せられたものである。神自身は決して人間に感謝などしないから。

さらに言えば、紺三郎が毒殺という手段にこだわったのも、それが最も苦しまずに死ねる方法だからと解釈することもできる。

雪渡り』は次のような文章で終わる。

二人は森を出て野原を行きました。
その青白い雪の野原のまん中で三人の黒い影が向うから来るのを見ました。それは迎いに来た兄さん達でした。

上記の文章は、私の解釈では次のように捕捉されることになる。
二人(の遺体)は森を出て野原を行きました。(遺体の運び手は)その青白い雪の野原の真ん中で三人の黒い(喪服を着た)影を見ました。それは(遺体を)迎いに来た兄さん達でした。

 

最後に言うが、私の言うことを頭ごなしに信じてはいけない。私のように『雪渡り』を捻じ曲げて解釈する人間が現れるようにすること、それこそが宮澤賢治が『雪渡り』に仕掛けた「罠」なのであるから。

雪わたり (画本宮澤賢治)