シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

君はマッスル北村を知っているか!?

と問いかける私はマッスル北村を知らなかった……ついさっきまでは。マッスルさんを知って凄いと思った。この思いを伝えねばと久しぶりにブログを更新することにする。

まずマッスルさんは、あの小保方さんですら、OA入試という裏技を使わなければ入学できなかった早稲田の理工学部に現役で合格した。だが、それは少しも凄いことではない。凄いのは早稲田に入学せず、その後、二浪して東京大学に合格したことだ。しかし、これも普通に凄いことにすぎない。彼のもの凄いところは、東京大学で猛勉強したのではなく、そこを中退して猛勉強したのだ。そして見事、東京医科歯科大学の医学部に入学。そして立派な医師になるために勉学に励んだ……とすればもの凄いことではあるが、彼はそうはしなかった。彼のものすごくもの凄いところは、なんと東京医科歯科大学まで中退してしまったのである。そしてマッスルさんはボディビルを極めるため、もの凄い練習をし、そして普通に凄いボディビルダーになった。

マッスルさん曰く、「ボディビルを極め、ボクはボディビルを通じて万人を勇気づける心の医者になりたい。だが、残念ながら彼のこの願望を叶えることは不可能である、と私はあえて断言する。なぜなら、彼がどれだけボディビルを極めたとしても、少なくとも私だけは1ミリたりとも勇気づけられることはないからである。

そもそも人に見せるために身体を鍛えるという発想が私には理解できない。確かにスポーツ選手の鍛えられた体は、私のぜい肉を纏った体よりも美しいことは認めよう。だがものには限度がある。ボディビルダーの異常とまで言える鍛えられた肉体は、私に言わせれば奇形としか映らない。

もちろん、そんな私の価値観を他人に押し付けるつもりはない。私はボディビルダーを嗤うつもりは毛頭ない。ただマッスルさんの次の発言には違和感を覚える。

他人を納得させる記録や結果よりも、たとえ自己満足と笑われようが自分で自分に心から「よくやった」と、ひとこと言える闘いこそ、まことの勝利であり、人間としての自信と誇りを得て、人生で最も大切な優しさや思いやりを身にまとう瞬間だと思う

マッスルさんは自分に「よくやった」と言うために、何と闘ってきたのだろうか。

彼は脂肪を付けないために可能な限り糖分を摂取しない食生活を送り、その結果、異常な低血糖状態となり、急性心不全で亡くなった。享年39、あまりにも若すぎる死である。だが、死者に鞭打つようだが、あえて言わしてもらう。マッスルさんは一種の摂食障害(拒食症)だと思う。彼が本来、闘うべき相手はこの病であったはずだ。

確かに「優しさや思いやり」は人生にとって大切なものである。しかし生命体にとっては糖分は大切(というより絶対に必要)なものであり、人間はそれをぜい肉というかたちで(瞬間ではなく)常時、身にまとっているのだ。

私はマッスルさんを凄いと言ったが、それは決して彼の生き方を賛美するものではない。むしろそうした風潮に異を唱えたいのだか、しかし、ついさっき知ったばかりの人の生き方に口を挟むのは出すぎた真似であった。深く反省している。

最後に一言だけ言わしてもらえれば、人生に勝利者も敗北者もいない。人生の最後は皆、死者である。だから私は死者になる前に、やるべきこと、そしてやりたいことをできるだけ多くやる。それは誰からも賛美されることのない、ものすごく平凡な生き方だが、その平凡さたるや、もの凄いと思う。合掌

 

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