発射寸前の京阪電車に飛び乗った。残業で遅くなり、この電車が終電なので、これを逃すとタクシーで帰るしかない。何とか間に合い、ほっとしていた私だが、一息ついてあたりを見回すと私の乗った車両には他にはただひとりの乗客しかいなかった。
「こんばんわ」という声が何度も聞こえるような気がした。どうやら眠ってしまったらしい。私の目の前に「こんばんわ」の声の主の顔があり、ぎょっとして目が覚めた。声の主はもうひとりの乗客だった。彼は私の隣に腰を下ろし、「こんばんわ。わたくし、圭と申します」と自己紹介してきた。誰なんだ、こいつ。なんか、ホラーっぽい展開だ。
「圭さん、ですか」とりあえず無難にこの状況を切り抜けようと、私は当たり障りのない返事をした。だがそれが間違いだった。圭と名乗る男は待ってましたとばかりに話し出した。
「そう、『圭さん』です。でも『圭はん』と呼ぶ人もいます。特に京阪電車に乗っているときには」と意味不明のことを言う。さらに圭は続ける、「大阪には、おばはんはいるけど、おじはんはいません。なぜだと思います」知らんがな。「東京の人は『さん』を『はん』で置き換えると何か、大阪っぽくなったと勘違いしているようですが、どんな場合でもこの置き換えが可能だとは限りません。例えば鈴木さんは大阪でも『すずきさん』で、すずきはんとは呼びません。」面倒くさいやつに絡まれるホラーなのか、確かにある意味、怖いんだけど、こんなホラー、聞いたことない! そんな私の気持ちを知ってか、知らずか、圭と名乗る男はさらに語り続ける。
「船場では長女のことを『いとはん』と呼ぶことはありますが、末娘を『こいはん』と呼ぶことはありません。こいさんはあくまでも『こいさん』です。もうお判りでしょ・う。『おじ』のじ、『すずき』のき、『こい』のい、これらはすべてイ列(い・き・し・ち・に・ひ・み・り・ぎ・じ・び)です。最後がイ列で終わる名前に「はん」は付けてはいけない、「さん」でなけばならないのです。同じことはウ列についても言えます。黄門の家来二人のうち、『助はん』はOKですか、『格はん』はNGです。水戸から来た格さんは、大阪でも格さんなのです。あ、それと最後が『ん』で終わる場合も『はん』を付けてはだめです。江戸南町奉行の金さんは浪速でも金さんと呼ばれていました」。
何でそんな話を私にするんじゃ、と言いたい気持ちを抑えて「いやぁ、勉強になりました。圭さんも『けい』ですから、大阪でも『けいはん』じゃなく、『けいさん』と呼ばなければならないんですね。目から鱗です。それでは私は次の駅で降りますので」と腰を浮かせたところで、青ざめた顔で圭は言う、「話はそんなに単純じゃありません。まだ続きがあるんです」。
私は圭を押しのけて「私には女房子供がいる。家族が待っているんだ。そこをどけ」と叫んだ。だが電車のドアにへばり付く私に向かって、圭は不気味に微笑んで冷酷なことぱを投げつけるのであった。「残念ですが、次の駅はありません。この電車は永遠に走り続けるのです」。
ホラーじゃあああああああ!
著作権侵害してますが、それが何か。