シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

掛け算の順序問題のヘーゲル的考察

まずヘーゲルの『小論理学(上)』の一節(p296)を引用する。

一と言えば、まず多を思いつくのが常である。するとここで、多はどこから由来するかという問題が生じる。表象のうちにはこの問題への回答は見出されない。なぜなら表象は多を直接的に現在するものと見、一を多のうちの一としか考えないからである。概念から言えば、これに反して、一は多の前提であり、一という思想のうちには、自己を多として定立するということが含まれている。向自有する一は、かかるものとして、有のように無関係的なものではなく、それは定有と同じく関係である。もっとも、それは、或るものとして他のものに関係するのでなく、或るものと他のものの統一として自己自身へ関係するのであり、しかもこの関係は否定的な関係である。これによって一は自分自身と両立しがたいもの、自己を自己自身から突きはなすものであることがわかる。われわれは、向自有の過程におけるこの側面を、比喩的な表現をもって、反発と名づけることができる。〔中略〕しかし先にも言ったように、一は自己を自己自身から反発して、多を定立するものにほかならない。しかし、多の各々は、それ自身一である。各々がこのようなものとして振舞うことによって、この全面的な反発は、それと反対のもの、牽引(Attraktion)に転化する。

ここに一つの白い皿がある。一と言えば、多を思いつくのが常である。それと同じ黒い皿と赤い皿がある。つまり皿は全部で3皿ある。このように表象は「一つの皿」を多くの皿のうちの一つとしか考えない。ところで色が違う皿はどのような点で同じなのか。それらの皿すべての上に5個のイチゴが載っているという点で同じなのである。つまり皿の同一性は皿自身に内在的なものではない。言い換えれば皿にとっては、どうでもいいことである。

さて「向自有する一」は皿(或るもの)とイチゴ(他のもの)の統一として自己自身に関係する。この「一」とは5個のイチゴである。なぜならイチゴが5個と限定されるのは、それが「一」であるから、すなわち一つの皿にのっているからである。しかしこの関係は偶然的であり、したがって否定的な関係である。だから5個のイチゴと皿は相互に反発する。

そのときイチゴが皿を反発するのは、一つの皿に載っている限り、5個のイチゴはあくまで「一」でしかないからであり、また皿がイチゴを反発するのは、イチゴを載せている白い皿、黒い皿、赤い皿の各々はそれ自身一つの皿であるからである。私は冒頭で「ここに一つの白い皿がある」と言ったが、同じことは黒い皿と赤い皿についても言える。そしてこの「同じこと」は各々の皿にとってはどうでもいいことではない。なぜならそれぞれの皿についての言明はそれらの個性だからである。かくして皿はイチゴを突き離す。

そして3つの皿から突き離された5個のイチゴの各々は、それ自身としては依然「一」であるが、各々がそのようなものとして振る舞うことによってイチゴの皿に対する反発は、それと反対のもの、イチゴ相互の牽引へと転化する。このようにして「一」ではない多、すなわち5個のイチゴではない多が定立される。その多とは15個である。

このとき15個である物がイチゴであるということは、もはやどうでもいいことであり、本質的なのはそれらが「同じもの」であるということである。そしてこの「同じ」は、それらのものにとって内在的であり、本質的である。この内在的本質が外化したもの、それが単位「個」である。最初に「一」に与えられた5個のイチゴという規定は非本質的であり、5と「個」という単位の結合は3皿と同様に偶然的なものである。しかしその「一」が非本質的なものを反発し、15という多を定立したとき、それと単位の結合は必然的である。この必然的単位とは多の同一としての一である。すなわち多を定立する前提としての一ではなく、その結果として一である。

以上のようなことを小学生に理解させることは不可能である。またそうした問題について興味のない大人も理解することはない。ただ大人には不可能でも、子供には把握させることは可能である。その方法が掛け算の順序を固定させるという訓練である。そもそも自然数とは何かについても、高度な議論がなされるが、しかしそのような議論をしなくとも、数えるという訓練を通じて子供は自然数を把握する。子供が何かを(理解するのではなく)把握するということは、彼の「華麗ならざる覚醒」である。

 

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY(字幕版)