シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

私は嘘はついておりません。

学とみ子さんがお怒りのご様子です。

臨床医学の論文とは、医師が診療を通じて得た知識をそのまままとめると論文になります。まず現象が先にあり、そこから思考が始まります。狸さんはそこがわかっていて、なぜ、学とみ子が米粒を取りたかったなどと嘘を書くのでしょう。

「狸さんはそこがわかっていて」 と仰いますが、私は全然、わかっていません。私のイメージする研究する医師とは『白い巨塔』に登場する里見脩二です。彼は診察が終わった後に、夜遅くまで「ただ研究がしたいから」研究するタイプの研究者です(失礼ながらこのイメージは学さんとは相いれない気がします)。しかし一方では「日に日に弱っていく患者を少しでも助けたい」という思いを持つ誠実な医師でもあります。私の頭の中では臨床(患者の治療)と研究は全く別物だと刷り込まれていたのです。したがって私は「嘘」はついておりません。前回の記事ははあくまで私の推測(憶測ともいう)に基づくものであります。

それは医師としての劣等感、自信なさを補うものとして、学さんには必要だったのでは、と私は推測するのです。

と明記しています。

よく刑事ドラマで「証拠もないくせに、憶測でものを言うのは止めて」というセリフを耳にしますが、「憶測でものを言う」ことを禁じられて一番困るのは学さん自身ではないでしょうか。刑事ドラマでは最後に確たる証拠が見つかり、犯人は観念するわけですが、STAP騒動ではそういう展開は望めません。だから推測・憶測でものを言うしかない。でもそれは虚しい作業です。

そもそもSTAP細胞の有無とは別の理由(4件の不正)で、STAP論文は撤回されたのですから、STAP細胞があるとしても、最初から実験をやり直し、新たな「STAP論文」を発表するしかないのです。それを「虚しい作業」ではないと考える研究者、およびその研究を支援するスポンサーがいれば、とりあえず最初の一歩は踏み出せます。しかし現状では、それは絶望的であるから、学さんを含め擁護の人たちは「虚しい作業」に没頭するのでしょう。そして彼らは「虚しい作業」に従事することに幸福を感じている。

いな一般に人間は〔中略〕誤謬のうちに捉えられていることを最大の不幸であるとも考えていないのである。感性的なるものが人間においては大抵は知性より遥かに優勢である。そこでたとえば、真理の光に照らして考えると実際は不幸なのにもかかわらず、或る人間が自分では幸福であると思いこんでいる場合には、彼は大抵の場合こういう誤謬から引離されることを決して望まない。逆に彼はそのことに憤りを感じ、自分をその誤謬から引離す人を最悪の敵と看なすであろう

死に至る病 (岩波文庫) p67

学さんにとってため息さんは 「自分をその誤謬から引離す人」なのでしょう。

死に至る病 (岩波文庫)

死に至る病 (岩波文庫)