シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

元始、女性は太陽であった(3)~「新しい女」と「神の奴隷」~

青鞜」創刊の辞『元始、女性は太陽であった』は、現在では女性解放運動を象徴することばとなっているが、それが書かれた当時、雷鳥はそうした思想よりも禅の思想に惹かれていた(前々回の記事で紹介した心中未遂事件において雷鳥は「いやはや呆れ返つた禅学令嬢といふべし」と揶揄されており、事実、慧薫(えくん)禅子という道号を授かっている)。

しかし雷鳥の中で禅の思想は深められることはなく、彼女は伊藤野枝の論稿『新しき女の道』に共感し、『私は新しい女である』を書いた。伊藤は制度としての結婚は否定するが、感情としての恋愛は否定しない、したがって不倫も否定しない(結婚という制度がなければ不倫は成立しない)。否定しないどころか実践する。彼女は妻と愛人のいる大杉栄と同棲し、最後には彼を独占することに成功する。こういうラディカルな自由恋愛を肯定する「新しい女」には「男性といい、女性という性的差別」こそ重要であり、したがって「中層ないし下層の我、死すべく、滅ぶべき仮現の我に属するもの」を滅ぼそうと「精神集注」することなど必要ないことになる。雷鳥は『私は新しい女である』を書くことによって「私は女である」ことを、したがってまた「私」を肯定した。これがヴェイユとの決定的な違いである。彼女は生涯を通して「〈わたし〉をほろぼすこと」を貫いた。そしてついには〈わたし〉の肉体をも滅ぼしてしまった。雷鳥は85歳まで生きたが、ヴェイユは34歳の若さで死んだ。

ところで〈わたし〉を滅ぼすとは、具体的にはどうすることなのか? 私の解釈では、それは必然への服従である。ヴェイユは次のように言う。

ある目標のためにではなく、必然によって、行動すること。これ以外のことはできないのだ。それは、行動ではなく、一種の受動性である。能動的に行動しない行動である。

奴隷は、ある意味で、その適例である。〔中略〕

自分の行動の動機を、自分の外部にもっていくこと。押し迫られること。まったく純粋な動機〔中略〕は、外側にあるものと思われる。

もし自分の行動の動機が〈わたし〉の外側にあるとすれば、その行動において〈わたし〉は存在しないに等しい。

ヴェイユは「必然は、神をおおうヴェールである」と言う。しかしこの必然は科学の概念としてのそれではない。なぜならヴェイユは続けて次のように言うからである、「神は、ありとあらゆる現象を、例外なく、この世のメカニズムのままにゆだねた」。自然現象もまた「この世のメカニズム」に、すなわち自然法則に委ねられたのである。つまり天地創造が神の業であるとしても、その中で起こる自然現象が自然法則に従うのは神のあずかり知らぬところである。ではヴェイユの言う必然とはいかなるものなのか?

神との正しい関係とは、観想においては愛であり、行動においては奴隷の境遇である。ことことを混同しないこと。愛をもって観想しながら、奴隷として行動すること……

神と正しい関係を保とうとしたヴェイユは、まさに「神の奴隷」であった。しかしヴェイユは次のようにも言う、「神が何かあることを命じていると知ることは決してできない」と。では神の命令を知ることができないのに、いかにして奴隷は神の命令に従うことができるのか。

これは私の解釈であるが、人が「神の奴隷」として行動するとき、その行動が必然を創り出すのではないか。つまりヴェイユの言う「必然」とは、ウィトゲンシュタインの言う「規則」と本質的に同じものではないのか(この論点については別の機会に論じるつもりである)。 

雷鳥は「新しい女」となった。「新しい女」は解放された女、自由な女である。一方、ヴェイユは「神の奴隷」に甘んじ、必然服従することを規範とした。ヘーゲルは言う*1、「自由と必然とを相容れないものとみるのが、どんなに誤っているかがわかる」と。必然を前提とする自由は「まだ無内容で単に可能的な自由としての恣意とは違った、現実的で内容のある自由となるのである」。雷鳥が「現実的で内容のある自由」を手にしたのか、またヴェイユがなぜ必然を揚棄し、自由な人として振る舞おうとしなかったのか、私にはわからない。ただ同じ時代に異なる国で生きた二人の女性は根本的に違った生き方をしたが、ともに神秘に魅せられたということは確かである。 

 

*1:岩波文庫『小論理学(下)』