シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

狸が《ら抜き》と《い抜き》から「さ、洗い流そ。」を読み解く

牛乳石鹸のCMが炎上しているらしい。


牛乳石鹸 WEBムービー「与えるもの」篇 フルVer.

その理由のひとつはこのキャッチコピーにあるらしい。

f:id:giveme5:20170818121635p:plain

多くの人が、何を洗い流すのがわからない、と嘆いているようだ。しかし、このキャッチコピーをよく見れば、そこにヒントが隠されていることがわかる。 まず全く関係ないように思える話から始めよう。

「鮫はまずくて食べられない、と言った人が鮫に食べられた」という文章の前段の「食べられ」は可能を意味し、後段の「食べられ」は受身を意味する。異なる意味の語が同じ形で現れるのは不合理だ、という理由によって「食べれる」等の《ら抜き》ことばが跋扈するようになって久しい。

《ら抜き》ことばは他人が話しているのを聞く分には、特に違和感はないというのが私の現在の感覚である(もっと言えば私自身が《ら抜き》ことばを使っていないと言い切る自信はない)。しかし活字の中に《ら抜き》ことばを見つけたときは、おそらく違和感を抱くであろう。少なくとも自分が《ら抜き》ことばを使って文章を書こうとは思わない。

《ら抜き》ことばは可能表現とそれ以外の表現(受け身・自発・尊敬)を区別できるという点で合理的である。しかし《い抜き》ことばには、そのような合理性はない。ちなみに《い抜き》ことばとは「食べている」「見ている」から「い」を抜いて「食べてる」「見てる」と表現したものである。私の経験だけから言うと、日常会話では、ほとんどの人が《い抜き》ことばを使っている。私自身も全く違和感を感じることなく、自然と使っている。しかし、それは、あくまで仲間内での日常会話においてである。文章を書くときには絶対使わない。

私が《ら抜き》ことばを使用しないのは、それが合理的であり、まさにそのため、将来的には日本語の文法において正式な用法として認められるのではないかと危惧するからである。私は合理的であるからといって長年使用されてきた用法を変更していいのかという疑問を持っている。ことばには伝統という重みがあるのではないか。しかし、もし新聞が《ら抜き》ことばを採用するようになれば、もはや、この疑問は粉砕され「時代なのかもしれない。でも、それって正しいのか?」と呟くしかないであろう。

これに対して《い抜き》ことばが自然に使えるのは、それが一種の方言みたいなものであるからである。「い」なんてなくても意味が通じるなら、それ抜きでいこうという軽いノリで使用されているのが《い抜き》ことばである。要するに《い抜き》ことばは軽い、重みがないのだ。仲間内での重みのあることば使いは堅苦しいし、日常会話での重みのあることば使いは息苦しい。

で、問題のキャッチコピーであるが、そこで用いられているのは《あ抜き》ことばと《う抜き》ことばである。すなわち本来なら「さあ、洗い流そう」とすべきところを「あ」と「う」を抜き「さ、洗い流そ。」としている。御丁寧に最後に読点を打って、そこで文章が完結していることを強調している。「洗い流そう」ではなく「洗い流そ」であることを印象付けようとする意図が読み取れる。 宿題を終えた子供が「さ、遊ぼ」と言うように、牛乳石鹸は「さ、洗い流そ」と言っているのである。この表現にも重みがない、というか軽い。もし、医者が癌を見つけても、決して患者に向かって「さ、取ろ」などとはいわないであろう。

さて前置きが長くなってしまったが、いよいよここからが本題、CM「さ、洗い流そ。」の解説である。まず新井浩文さん演じる父親は重いものを背負っている。それは、自分の(厳しい)父親父親である(優しい)自分、このどちらが本来、父親としてあるべき姿なのかという葛藤である。これは重い。軽々しく「さ、洗い流そ。」とは言えない。まず、この点を確認しておきたい。

さて、この優しい父親は、あることをきっかけに、ふと疑問に思う、──自分は「優しい父親」を演じているだけではないのか、と。そして、その演出をしている「監督」は自分の妻である。この「監督」は出がけには、ケーキを買ってくるように指示し、仕事中に誕生日プレゼントを買って帰るよう指示する。もちろん、妻が「優しい父親」を演出しているというのは、父親の(大げさに言えば)妄想である。 しかし妄想に取りつかれた父親は「監督」に反抗を試みる。偶々、仕事でミスをした後輩を慰めるという口実で、彼を飲みに誘う。そして妻からかかってきた携帯にも出ない。案の定、帰宅した父親は妻になじられる。だが反抗期にある父親は何も言わずに風呂に入る。

さて、入浴シーンで注目すべきは、使用されたと思われる石鹸のアップの後で、父親が「自分の父親が与えとくれたものを、自分は子どもに与えているのだろうか」かと自問自答するところである。このシーンで、根本的な問題、すなわち父親の葛藤が洗い流されていないことが示唆される。 そして風呂から出た父親は妻に素直に謝る。洗い流されたのは、妻への理由なき反抗の原因である。要するに、このCMは親子関係に悩む父親が、イライラして妻に八つ当たりするものの、のちに風呂の中で反省し、風呂から出て謝り、妻もそれを許すという「なんでもない1日の物語」(製作者の弁)なのである。もし親子関係の問題が石鹸で体を洗うだけで解決するなら、それは奇跡の1日の物語というべきであろう。

以上がCM「さ、洗い流そ。」の解説、というか私なりの解釈である。おそらく製作者は意図的に、このCMをわかりにくく制作したと思う。というのも「なんでもない1日の物語」を文字通り「なんでもない」ように撮るなら、まったくインパクトのない作品になっていただろうから。