上記記事で述べたことを要約する。
- 単位には数学的単位と言語的単位(助数詞)がある。
- 言葉を話すことができる子供はすでに言語的単位を把握しているが、数学的単位は把握していない。
- 数学的単位と数の結合は一方では積という形式で数学的に結合していると言えるが、しかし数学的単位は数ではないので、他方では数学的に結合しているとは言えない。
- このような奇妙な結合を論理的に説明することは不可能であり、数学的単位は理解するのとは違った仕方で把握するしかないし、現に大人はそれを把握している。
- その把握のしかたは考えずに、習慣に従うことである。
(日本ではやっちゃいけないと教わる「かけ順」が、米国では習慣的に使われている「かけ順」だったりするんですよ。だから、あの順番は絶対ではなくて、ほんとにローカルルールなんです。「逆順」だと違和感があるのは、そう躾けられたからです)
— 片瀬久美子@女子力少なめ (@kumikokatase) 2016年12月28日
そう、単位数(数学的単位のある数)と無単位数(数詞と助数詞の融合体(例えば4個)を数4で置き換えたもの)のどちらを先に書くかは本質的な問題ではない。問題は習慣的に単位数を先に書くならば、そうしなければならず、習慣的に単位数を後に書くならば、そうしなければならないという点にある。つまり掛け算の順序は(日本であれ米国であり)習慣によって決定される(固定されている)ということ、逆に言えば、それを恣意的(別の言い方をすれば「自由」)に決定されるものではないということである。では習慣に従っていない場合、✖とするのが妥当なのか?
私は教育者ではないので、そのことについてはよくわからない。ただ、習慣に従うように子供を指導すべき(片瀬流に言えば「躾るべき」、ウィトゲンシュタイン流に言えば「訓練すべき」)だと主張するのみである。そうしないと規則に従うことができなくなるからである。その結果、68+57=5が正しいと主張するようになる《注》。
「そうすると、わたくしが何をしようと、それは規則に合致しているのか。」――わたくしは尋ねたい、規則の表現――たとえば道しるべ――はわたくしの行動とどういう関わりがあるのか、どのような種類の結合がそこで成り立っているのか、と。――おそらく、わたくしはこの記号に一定のしかたで反応するよう訓練されているから、こんどもそのように反応する、ということであろう。
しかし、それでは、あなたは単に因果的関連を述べたにすぎず、われわれがいま道しるべに従っているようなことがどのように生じてきたのかを説明していない。いや、そうではない。わたくしがまたさらに暗示したのは、人はある恒常的な慣用、ある習慣のあるときに限って道しるべに従う、ということなのである。
掛け算の文章問題が出されたとき、単位数を先に書くという「しかたで反応するよう訓練されているから、こんどもそのように反応する、ということであろう」が、しかし、それでは表面的な現象の「因果的関連を述べたにすぎず」、その現象の背後にあるもの、すなわち数学的単位を言語的単位(助数詞)から区別して把握するという「ようなことがどのように生じてきたのかを説明していない」。そう、それを説明することは不可能なのである。ただ「人はある恒常的な慣用、ある習慣のあるときに限って」それを把握すると暗示することしかできないのである。
《注》下記記事参照