シュレディンガーの狸

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助数詞から単位へ(補足)

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この記事のコメント欄で、掛け算を習う前に単位を習うという指摘があった。しかし、いくら新たな単位を習っても、子供はそれを助数詞として把握するはずである。

私は前回の記事で「数式の中には単位を記述してはいけない」と指摘した。しかし、助数詞ならば、それを式の中に記述してもかまわない。例えば「3Lの水に4Lの水を加えると、いくらになる」と出題されたとき、3L+4L=7Lという式を書いても構わない(ただそのように書くことを私は推奨しない)。もし「みっつよっつを足すとななつ」という言うことについては、私は何の問題もないと考える。そして問題がないのは、それが(式ではなく)文(その文には助数詞「つ」が存在する)であるからである。だが、式は純粋に数だけで構成されるべきである。だから3L+4L=7Lという式を私は推奨しない。

「3Lの水が入ったコップが4杯あるとき、それらのコップの水をひとつのバケツに入れると、いくらになる」と出題されたとき3L×4=12Lはよくない。その理由は、式の中に単位が記述されているからだけではない。

          3L×4=3×4L

であるから、よくないのである。

そのような式が成立するのは数3と単位Lが積という形式で結合しているからである。しかし掛け算を習ったばかりの子供は、まだ積という概念はもっていない。だからといって3L=3×Lと教えるのもよくない。単位は数から独立に、それ自身として数学的に存在することはなく、常に数と結合して(あるいは「数に寄生して」と言うべきか)のみ存在しうるからである。その点では単位と助数詞は共通する。違いは助数詞が数と結合しているのではなく、融合しているという点である。例えば「ひとつ」は数詞「ひと」と助数詞「つ」が融合して形成されたひとつのことばである。単位が独立した数学的存在ではないという点からは、単位とは数学的助数詞であると言える。あるいは助数詞とは言語的単位である、とも言える。比喩を用いて言えば、単位は数学的空間の限界に位置し、助数詞は言語的空間の限界に位置する。そしてその位置で二つの空間は接触している。このように単位とは、深く考えると非常に難解な概念であるが、しかしまた深く考えなければ、単純な概念である。だから子供には深く考えずに、といより何も考えずに単位という概念を掴んでもらう必要がある。

「3Lの水が入ったコップが4杯ある」(この時点で、すでにそこには12Lの水が存在している)という文における「3L」は量(数学的概念)であり、「4杯」はことば(言語的概念)である。数学的概念である量は単位と結合しているという点で、純粋な数学的存在ではない。そこで純粋に数学的存在である数3と、そうでない存在である単位Lに一時的に、そして物理的に分離する。この分離は式の中に単位を記述しないことによって実現する。しかし物理的に分離しても数と単位を観念的に結合させることは可能である。

他方で「4杯」ということばから必要な数4を取り出し、助数詞「杯」を不要なものとして捨て去る。そして計算式は3×4=12と書く。そこでは単位は記述されない。だからこそ潜在的に単位を持つ数とそうでない数を区別する必要がある。そのために掛け算において常に前者を左側に書く(実践する)という習慣を身に着けさせる(彼らは単位があると考える前に行っていたのである〈注〉)。そうすることが数と単位を観念的に結合させる方法である。最後に答の欄には数12と単位Lを結合させ、「12L」と書く。このようにして式の中では観念的であった結合が、その外で現実的結合に転化する。

〈注〉 この記事を参照 

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