シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

【次回予告】シシドカフカとは何者か?

さて、いよいよ私は、なぜブログを放置していたのかという謎を解明するときが来ました。だけど、そんな謎に、あえて解明する価値があるのでしょうか。そんな記事を読みたいと思う読者がいるのでしょうか。そんなことは私の知ったことではありません。私は書きたいから書く。そう、それがこのブログの原点です。そして私はこの原点を忘れていたのです。

放置する前に書いた最後の記事は動く魚拓です。まったく、ひどい記事ですね。何のひねりもない。ただ「魚拓は動かない」という主張に反論するために、動く魚拓を採って紹介しただけの、やっつけ仕事です。私はこんな記事を書きたかったわけではない。でも書いてしまった。今思うと、そこにはブログを更新しなければ、という焦りがありました。いつの間にかブログの更新を義務のように感じていたのです。

これはではあかんと反省し、書きたいものだけを書くと決意したのですが、しかし、なかなか書きたいネタが見つかりません。そういう状態が続くうちに、書きたいことを思いついても、「ま、わざわざブログに書くほどの事でもないか」と考えるようになりました。では、これまでの私の記事はわざわざブログに書くに値する内容だったのでしょうか。否、断じて否です。これまでの記事もくだらない内容ばかりで、なんでこんなことをわざわざブログに書くのか、普通の人なら首をかしげざるを得ないような内容ばかりでした。

では、なぜわざわざブログに書くほどの事でもないか、などと考えるようになったのでしょうか。それはブログを書かないことが常態化した結果、ブログを書くという習慣を私が無くしてしまったからです。私はこのブログの最初の記事を書く以前の自分に初期化されてしまったのです。しかもそれは完全な初期化ではありません。2014年2月25日より前の私にはブログを書いてきたという記憶はありませんが、現在の私にはそれがあります。つまり当時の私はブログを始めたのですが、今の私はそれを再開しようとしているわけです。

そこで問題となるのが、長期にわたってブログを放置してきたことの説明です。これは読者に対する説明責任を果たすという意味から必要なのではありません。前回の記事でも書きましたが、私にはいかなる責任もありません。ブログを書くのも放置するのも私の自由です。それでも私は何の説明もせずに、ブログを再開することはできません。私自身にとって説明は必要だったのです。意味が分からないと言われる方もおられるかもしれませんが、これ以上の説明は(これまでの説明と同様に)無用であると思料する次第です。

私は先に書きたいから書くということが私のブログの原点だといいました。しかし前回と今回の記事は例外です。両記事は書きたいから書いたのではありません。書かねばならないから書いたのです。そしてこれらの記事を必要としていたのは、世界でただひとり、私だけです。

それでは次回からは私が書きたいことを書いていきます。とりあえずはシシドカフカのお話で、わざわざブログに書く必要のない内容であることを予告しておきます。暇を持て余している人だけ読んでください。もちろん読んでくれる人がひとりもいないとしても、それでも私は書きます。

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