シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

マウンティングにおける錯覚と錯視

何かといえば上から目線で相手を見下す言動をする人、すなわちマウンティングしたがる人は、そうすることで自分が優位に立ったと錯覚します。しかしそうした人は、優位に立つどころか、自分の評価を下げているのです。そういう人は周囲から、いわゆる「器の小さい人」と評価されてしまいます。実はこの評価もまた間違っているのですが、それは錯覚ではなく、錯視なのです。

錯視の例としてWikiから拝借した次の図を見てください。

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AがBにマウンティングしています。どう見ても上に乗っているAが(器が)小さく見えるでしょう。この図を、ペイントを使ってAとBの位置を入れ替え、BがAにマウンティングしているようにしました。

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今度はBの方がAより小さく見えるでしょう。実はAとBを重ね合わせると、まったく同じ図形であることがわかります。

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同じ図形なのに錯視の効果によって、マウンティングしている(上にある)方が(器が)小さく見えるのです。そして錯視は人が対象を正しく認識していないという意味においては間違っているのですが、しかしそれは避けられない間違いなのです。

錯視現象が人間の脳の合理的な仕組みの非合理な結果の例である。もっとも錯視には網膜に近い部分で生じるものもあるが、先に述べたフィードバック情報により生じる場合も多い。つまり知覚器官から上がってきた情報を虚心坦懐にそのまま受け入れるのではなく、脳の領野階層の上の方に構築された世界モデルと比較することにより、判断が下されるのだ。この仕組みは、判断の迅速さ、ノイズ除去、欠如した情報の補完などに必要不可欠である。しかし同時に錯視のような不合理な結果も生じる。

人間の非合理さには合理的な理由がある*1

錯覚するのは極一部の人間だけであり、しかも本人がその気になれば、それを正すこともできる。しかし錯視は誰にも避けられない。なぜならそれは人間の脳の合理的機能が引き起こす「不合理」だからである。しかし避けられないとはいえ、間違いであることに変わりはない。要するに言いたいことは、例えば

但し、こうした議論をするためには、はなさんのような人(話題に入れない)が参加してくるようなブログはだめですね。

と語る学とみ子さんを「またマウンティングしてやがる、まったく器の小さい奴だ」などと見下すことは、人として避けられないとはいえ、やはり間違っている、ということなのです。ざっくり言ってしまえば、マウンティングする側も、される側も同じ人間だということです。とはいえ、される側にとってはマウンティングは不愉快なもので、反撃したくなるのが人情というものです。ただその場合、自分の器の大きさを見せつけることが相手にとって一番の打撃になるでしょう。

*1:ただしこの論文で論じられている錯視は立体的な物体を平面上で表現した場合に起こるもので、この記事で論じた平面図形については適用されない。