シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

正方形は長方形である?

この疑問が思い浮かぶのは、われわれが何となく(直感的に)「正方形は長方形ではない」と思っているからである。もちろん数学的には「正方形は長方形である」。長方形は4つの角の角度がすべて等しい四角形と定義され、正方形は4つの辺の長さが全て等しく、4つの角の角度がすべて等しい四角形と定義される。この定義から論理的に導き出される結論は「正方形は長方形である」である。

ところでウィトゲンシュタインは言う。

言語による意思疎通の一部になっているのは、諸定義の一致だけではなく、(非常に奇妙に響くかもしれないが)諸判断の一致である。このことは論理を破棄することであるように見えるが、しかし論理を破棄しているわけではない。

哲学探究』242節/p176

われわれは「正方形は長方形ではない」という判断で一致する。この判断が論理を破棄していないのは、その文の中の「長方形ではない」という述語が定義されていないからである。正方形は特殊な長方形であるという主張については誰もが納得するであろう。では正方形はどのような点で特殊なのか。正方形の定義によれば、4つの辺の長さが全て等しいという点で特殊なのである。しかしまた、それはもはや長方形と呼ぶことができないという点でも特殊なのである。では、なぜ正方形を長方形と呼ぶことができないのか。われわれがそのように判断するからである。すなわち、われわれは「正方形は長方形ではない」という判断で一致する。

続けてウィトゲンシュタインは言う。

測定方法を記述するのは一つのこと、測定結果を見て話すのは別のことである。ところがわれわれの「測定」と名付けているものは、測定結果のある種の恒常性によっても決定されている。

測定方法を定義することと、その方法で測定された測定値ついて何らかの判断することは別のことである。しかしそもそも「測定」と呼ばれるものには必ず測定値に恒常性がなければならない。すなわち同じものを測定すれば、その測定値は常に一定の範囲内に収まっていなければならない。別の言い方をすれば、測定の方法とは何よりもまず、測定値の恒常性が得られるような方法でなければならない。しかしこのことは、あまりにも当然すぎるので、測定方法の定義には含まれない。定義は常に不完全であり、それを補うのは、われわれの直感による判断である。

例えばある商人はある商品に値札を貼り、その商品の価値を定義する。すなわちその商品の価格を設定する。しかし他の商人は同一の商品の価値を他の価格で定義する。そうするとその商品価値の定義は一致しない。商人たちによる商品価値の定義は恣意的であるという点で不完全である。そのとき消費者が「その商品を買う」という判断で一致する価格が存在する。そうするとその商品は恒常的にその価格で売買される。それが商品の価値の測定値である。通貨という経済言語を用いて商人と消費者の意思疎通が図られる。

 

『哲学的探求』読解