シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

とみ子の無知と晴子の悪意が生み出す「空虚な可能性」

人が無知識であればあるほど、すなわち考察の対象の具体的な諸関係を知ることが少なければ少ないほど、あらゆる空虚な可能性の考察に耽りたがるものであって、例えば、政治の領域においては素人政論狂がそうである。さらに実生活においても、悪意や怠慢が、責任をのがれるために可能性というカテゴリーの後に身をかくすことが稀ではない。〔中略〕理性的で実践的な人間は、それがまさに可能であるにすぎないという理由によって、可能なことなどに心を動かされず、あくまで現実的なものを堅持する。

小論理学〈下巻〉 (1952年) (岩波文庫) p87

 

例えば学とみ子さんはSTAP事件について、具体的事実をほとんど知らない。これは何も学さんに限ったことではなく、私も含め、多くの人がそうである。ただ多くの人は学さんのように「空虚な可能性の考察」(=妄想)に耽ることなく、事件については忘れるか、「現実的なもの」(=桂報告書)を堅持する。もし桂報告書が現実的でないと主張するなら、それに代わる「現実的なもの」を提示しなければならないのに、それができないから、桂報告書は現実的でない「可能性がある」という「空虚な可能性」にすがるしかない。

確かにSTAP細胞は存在する可能性があるが、「理性的で実践的な」研究者は、「それがまさに可能であるにすぎないという理由によって、可能なことなどに心を動かされず、あくまで現実的なもの(=ES細胞やiPS細胞)」の研究にまい進する。

小保方さんは手記を出版し、ES細胞の混入犯は若山さんであるという「可能性」を示唆した。しかし「理性的で実践的な人間」なら不正認定に対し「現実的なもの」(=実験データ)を提示して、自らの潔白を証明する。しかしそれができないから、「可能性というカテゴリーの後に身をかくすこと」にした。『あの日』は小保方さんの「悪意や怠慢」の産物以外の何物でもない。

今、学さんはため息氏に不都合なことが起きる「可能性」に一縷の望みを抱いているようだ、それが「現実的なもの」になっても自分は一切関係ないと宣言することによって…。もし小保方さんが同じことをしたら、小保方信者が暴走する可能性はある。しかし小保方信者の一人にすぎない学さんのために、そこまでする人はいないだろう。ため息さんに不都合が起こる可能性は(学さんにとっては残念ながら)極めて低いと断言せざるを得ない。 

小論理学 下 (岩波文庫 青 629-2)

小論理学 下 (岩波文庫 青 629-2)