シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず

学とみ子さんのブログに次のようなコメントがありました。

それにしても、狸氏の例えは矩をこえていて、女性に対して失礼過ぎると普通の人は感じるでしょう。捨て置けばいいと思います。

私もそう思います。まだ70でもなく、また聖人君子でもない私はいとも簡単に学さんを乗り越えちゃいました。そうゆうわけで、前回の記事で学さんに悲しい思いをさせたことを心から反省します。

このブログは、糞と称されたのは、学とみ子にとってはなんとも悲しい限りだが、二度とSTAP記事は書かないともおっしゃっているので、狸氏自身も意を決しての投稿なのでしょうか?

そうなんです。私はSTAPをネタにしないとブログが書けないSTAP依存症なのです。つまり「二度とSTAPには手を出しません」ということは二度とブログを書かないということを意味するのです。そういうわけで意を決して、はてなに引退届を提出したのですが、残念ながら受理されませんでした。ちなみに大相撲では、その後の去就に関わらず現役を退くことを「引退」、親方を停年前に辞めることを「退職」と表現するらしいです。私は親方ではないので退職届は出せません。というわけで学さんには申し訳ありませんが、現役続行ということになりました。

ところで学さんは私のことをこう言っています。

本気で、小保方捏造を信じている方のようです。
ES説を信じる知識層の人の場合、このブログの攻撃性は、ハナにつくというところかもしれません。
狸氏は、このブログを読んでいただいているので、笹井先生の言葉などからして、狸氏もES説に疑問を感じて欲しいとの希望・・・は甘かったです。

この「小保方捏造」が、小保方さんがES細胞を意図的に混入させてSTAP幹細胞やキメラを捏造したという意味ならば、私はその説を信じていません。しかしまた、その説に疑問を感じることもありません。 というのもそれが一番、ありそうなことだと私には思えるからです。もちろん、それは私の妄想です。

さて、前回の記事では「仮説なのか妄想なのか、そこに明確な境界線はない」と言いましたが、今、両者を隔てる境界線について思い至りました。それは、その説が正しいのか、そうでないのかを実証する気のある人が立てる説が仮説、その気の無い人だ立てる説はすべて妄想だ、というものです。つまり論より証拠、「STAP有ります」よりキメラだということです。科学者は信じることよりも疑うことを優先します。そして仮説が疑いえないものであることを実証しようとします。実際、小保方さんも当初は、そのような立場から若山さんにキメラ作成を依頼したのです。だからその当時は「STAP有ります」は仮説だった。しかし『あの日』以降、小保方さんにはその気はなくなった、つまり「STAP有ります」は彼女の妄想になってしまった。

仮説を語ることはもちろん、妄想を語ることも悪いことではない。ただ普通、科学者は仮説をブログなどで公にしない。彼らは、それが実証され、もはや仮説ではないと確信したときに、はじめて論文という形で公にする。学さんは妄想を(闇に呑み込まれた結果)妄想でないと信じてブログで公にする。私は妄想であることを自覚しつつ、妄想を語ることが楽しいからブログで公にする。私の妄想を楽しんでくれる人がいる限り、私は「STAP止めます」とは二度と言わない。ただSTAP依存症からは脱却すべく、現在、治療に励んでいる。

そして私がブログを辞めるときには「ぼくという“天才”を葬ろうと思っております」みたいなことを言いたい。しかし葬りたくても私は"天才"ではない。ということは私は死ぬまでブログを辞められないということか。貴乃花さんは退職届さえ出せば辞められるのに。それにしても相撲協会貴乃花さんに辞めてほしいのか、ほしくないのか。世の中、わからないことだらけです。私たちは闇とうまく付き合っていくしかないということです。

罠 featuring SOIL&