シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

「ニモ」と「デモ」のお話

といってもファインディング・ニモがデモ行進をしたときの話ではありません。私は妖術使いではないという話です。

事件は会議室で起こっているのではない、どこにも起こっていないのだ。(どこにも無い!)
あるいは
事件は会議室で起こっているのではない、どこでも起こっているのだ。(どこでもある!)
か、一般的に使われそうですが、狸氏の妖術的表現になると、

“どこでも起こっていないのだ。”(どこでも無い!)
となるのですね。

たぶん私の読解力に問題があるのだと思うのですが、学とみ子さんが何を言いたいのか、よくわかりません。ため息さんの言うように冗談を言っているのかもしれません。しかし、ひょっとすると「でも」は肯定文で用いる語で、否定文では「にも」を使用すべきであり、したがって「どこでも起こっていない」という否定文は日本語として間違っている、と言いたいのかもしれません。だとすれば「言語学の業界では名前の知られた有名な学者」(自称)として黙っているわけにはいきません。というわけで反論します。

  • 「に」と「で」について

「学校行く」「学校勉強する」が「に」「で」の正しい使用例である。

「事件は会議室起こっている」は間違った使用例です。もちろん「どこも起こっていない」も間違っています。正しくは「どこも起こっていない」です。以上、反論終わり。しかし、これでは何の面白みもないので、学さんの「どこにも無い」について考察してみましょう。なお「に」と「で」について詳しく知りたい方はに・で、の使い分け!日本語の格助詞、違いは難しい!?をどうぞ。

「で」は、何かが行われる場所などを表す場合に用いられ、
「に」は、何かがある場所や、到達地点を示す場合に用いられます。

だから、「存在する」という意味をもつ「有る」、およびその語の反対の意味をもつ「無い」の前に来るのは「に」であり、「で」が来ることはありません(学さんのいう「どこでもある」については最後に説明します)。また「である」ということばについてはこの記事を参照してください。

  • 「も」について

「学校に行くし、塾に行く」「学校で勉強するし、塾で勉強する」

という文例から明らかなように「も」はMe tooのtooに相当することばですね。ちなみに二つの文は両方とも肯定文です。そして両文とも「学校」「塾」と場所が特定されています。では、そうでない場合はどうでしょう。

「どこでも起こる」「どこでも起こらない」

この肯定文・否定文ともに特に違和感はありません(少なくとも私には)。そして否定文「どこにも無い」もまた違和感はありません。しかし肯定文「どこにも有る」には違和感を覚えます。

  • 「どこにも有る」について

「どの公園にも、ブランコは有る」とすれば、違和感はなくなります。存在する場所が「公園」に限定され、存在する物が公園に有って当然の「ブランコ」に限定されているからです。このような限定を取り除いて「どこにも有る」と肯定すると、本来、存在するはずのない場所にも(したがってそこには存在しないものが)存在することを肯定することになってしまいます。これが「どこにも有る」の違和感の正体ではないでしょうか。しかし、だとすると「どこでも起こる」についても同じことがいえるという反論があろうかとおもいますが、この点については「どこで起こるか」と「どこに有るか」における「どこ」が占める重みの違いだと思います。「で」よりも「に」が付く方が重い。

「学校試験が行われる」「学校試験問題が有る」

この二文を比べると、後者の「学校」の方に重みがあると思いませんか? 思わない人は思わないで結構です。しかし考えてみてください。学校で試験があることは事前に知らされています。問題は事前に試験問題を入手することです。とすれば、それがどこに有るかは重要問題です。なお念のために言っておくと「しかし」以降は冗談です。先を続けます。

  • 「どこにでも有る」について

「どこにも有る」の違和感を消すには次のように言いかえるしかありません。

「どこでも有る」

では、なぜ、われわれはこの文に違和感を覚えないのでしょう。そもそも、この文の中にある「でも」は、これまで考察して来た「でも」と同じなのでしょうか。私は違うと思います。この「でも」は「それでも地球は回っている」の「でも」に近い意味を持っていると考えます。この文では「それ」が何を指すのかは問題ではありません。問題なのは「地球は回っている」ということだけです。そして「それ」を透明化することによって「地球は回っている」ことを強調するのが「でも」の役割です。「矢でも鉄砲でも持ってこい」の「でも」も、何を持ってくる(何で攻撃する)のかを問題にしないことによって「持ってこい」(攻撃してこい)を強調しています。

同様に「どこにでも有る」においても「でも」があるおかげで「どこに」有るのかは問題ではなくなっているのです(そして「有る」ことが強調されている)。その証拠に「どこでも」から「に」を抜いて「どこでも有る」と表現しても、それほど違和感を感じないでしょう。つまり「どこでも有る」は「どこにでも有る」の省略形(話しことば的表現)というわけです。

では本日の講義はこれまで。

 

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