シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

m・ドエム氏の犯罪

今回は出オチではない。かといって最後にオチがあるかどうかは、今のところ私にもわからない。ちなみにタイトルは阿部公房の小説『S・カルマ氏の犯罪』のパクリであるが、内容は小説のパロディではない。前置きが長くなった。

ため息さんのブログでm氏の犯罪がバクロされているのであるが、問題の記事「小学校 中学校の運動会 お弁当 詰め方のコツとレシピ」は現時点では削除されてい。削除すれば犯罪の証拠は隠滅できるが、それはm氏が自身の犯罪を認めたことになる。ため息さんのブログの追記では写真だけでなく、文章までパクっていることがバクロされてしまった。となるともう潔く削除するしかない、と私なら思うが、さてm氏はどうするか?

安部公房は「S・カルマ氏の素性」という一文で次のように語る。

このナイーブで平凡な、わが主人公は、〔中略〕自己に対して真面目であり、誠実であることによって、その無意味さをバクロする。私がバクロするのではなく、彼自身が、哲学的な表情で自分の首をしめてみせてくれるという仕組なのである。

私は「m・ドエム氏の素性」について次のように語ろう。この主人公は他者に対して不真面目であり、不誠実であることによって、その無意味さをバクロする。彼自身が「お弁当の詰め方」という記事を書いて、「50歳のおっさんの日頃の発言からは写真のようなファンシーな料理ができるような方とは思えません」と見透かされ、自分の首をしめてみせてくれたという仕組みなのである。

さて阿部公房には他に『棒』という作品がある。ある平凡な男が死んで棒になり、この棒を先生と二人の学生が裁くという話である。ひとりの学生は棒を次のように肯定的に評価する。

この棒は、かなり乱暴な扱いを受けていたようだ。一面に傷だらけです。しかも捨てられずに使い続けられたというのは、おそらくこの棒が、生前、誠実で単純な心を持っていたためではないでしょうか。

しかしもうひとりの学生の評価は否定的である。

ぼくは、この棒は、ぜんぜん無能だったのだろうと思います。だって、あまり単純すぎるじゃありませんか。ただの棒なんて、人間の道具にしちゃ、下等すぎますよ。棒なら、猿にだって使えるんです。

一方が「誠実」と評価するところを他方は「無能」と評価する。両者が一致しているのは棒が「単純」であるという点である。先生が両者の意見を次のようにまとめる。

君たちは、同じことを違った表現で言っているのにすぎないのさ。君たちの言っていることを要約すれば、つまりこの男は棒だったということになる。そして、それが、この男に関しての必要にして十分な解答なのだ……すなわち、この棒は、棒であった

そして先生が「この棒」に下す「裁き」は「裁かぬこと」である。先生によれば棒とは「裁かぬことで裁いたことになる、好都合な連中」なのである。

だからこうして、置きざりにするのが、一番の罰なのさ。だれかが拾って、生前と全く同じように、棒としていろいろに使ってくれることだろう。

 m・ドエム氏の犯罪に下される罰も放置でいいと思う。学とみ子さんのような人が「棒」として使ってくれるだろうから。『棒』の終りには次のような一文がある。

「この棒は、ぼくらの言うことを聞いて、何か思ったでしょうか?」 先生は、慈しむように学生の顔を見つめ、しかし何も言わずに、二人を促して歩き始めた。学生たちは、やはり気がかりらしく、幾度か私のほうを振り向いていたが、間もなく人波にのまれて見えなくなってしまった。だれかが私を踏んづけた。雨にぬれて、やわらかくなった地面の中に、私は半分ほどめり込んだ。

さて単純なm氏は私の言うことを聞いて、何か思ったでしょうか? 私といえば、この先、気がかりなので幾度も「トレンド情報最前線」 を振り向くことになるだろう。

友達・棒になった男 (新潮文庫)