シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

大の大人が日記を連載しているんだぞ! わかっているのか!

マトモなキャリアを真っ直ぐに突き進んでいく人は、決してブログなんて書かない。私も含め、数年以上にわたって頻繁にブログを書き続ける人間は、どこかおかしいし、どこか憑りつかれている。マトモじゃあない。ほかにすることはないのですか。だけど書かずにはいられないからブログが生き残っていく。それは、めでたいことかもしれないが、おめでたいことかもしれないのだ。

大の大人がブログを書き続けているんだぞ!わかっているのか! - シロクマの屑籠

早稲田の大学院からハーバード大学への留学、そして理研のユニットリーダーまで上り詰めた小保方さんは、まぎれもなく「マトモなキャリアを真っ直ぐに突き進んでいく人」であった。だから彼女は「決してブログなんて書かない」。でも小保方さんもまた、何かに「憑りつかれている」ことに変わりはないようである。だから日記を某月刊誌に連載し続けているのではないか

ブログではなくて日記、ウェブという最先端のテクノロジーではなくて紙媒体に印刷するという15世紀にまで遡る技術に依拠して小保方さんは何を伝えようとしているのか。某月刊誌を買う金がもったいなくて、日記を読んでいない私にはわからない

ブログを書き続けることに時間やエネルギーを費やせば費やすほど、その選択は大の大人にとってのっぴきならないものになる。少なくとも私自身はそうだと思う。私はブログを書き続けてブロガーになってしまった。それで得た可能性もあるが、失った可能性もある。他人から評価されることもあるかわりに、たくさんの人から指をさされ、馬鹿にされて、笑い者にされることもある。どちらにせよ、ブロガーをやるとは、そういうことなのだ。

小保方さんが日記の連載を続けることで確実に得たものは原稿料である。では失ったものは何か? いや、小保方さんはもはや失うものは何もないという覚悟を決めているのかもしれない。「他人から評価されること」は期待しない、「たくさんの人から指をさされ、馬鹿にされて、笑い者にされること」は覚悟のうえのこと、小保方さんにとって、あの日記を連載するということは、そういうことなのかもしれない

かりに彼らがブログを今すぐ畳んだとしても、これまで積み上げてきた時間やエネルギーは膨大で、ブログを畳むという決断自体がのっぴきならないだろう。ブログを長く続けるというのは、そういうことだ。それでもブログを続けていくのがブロガーだし、彼らはまさにブロガーになってきているのである。

小保方さんがSTAP研究のために「これまで積み上げてきた時間やエネルギーは膨大で」あり、研究をやめるという「決断自体がのっぴきならない」はずなのに、いとも簡単に決断してしまった。おそらく『あの日』の出版はその決意表明なのだろう。いや、それ以前に例の細胞を混入した時点で、すでに決断していたのかもしれない。彼女は「のっぴきならない」ところまで追い詰められ、自分では決断できないので、誰かに止めてほしかったのではないだろうか。なんだか憶測ばかりで、まるで学とみ子さんのブログみたいになってきた。

私は彼らに「武運長久であれ」と祈った。それは私自身への祈りでもあり、ブログを書かずにはいられない者、インターネットに膨大な時間やエネルギーを費やして、それで人生の帳尻を合わせようと生きあがいている者全てへの祈りでもある。

そう、私も学とみ子さん同様「ブログを書かずにはいられない者」「それで人生の帳尻を合わせようと生きあがいている者」の一人なのである。このブログを始めたのは2014年2月24日である。世間ではすでにSTAP騒動が始まっていた(私はその時点ではまだ騒動のことは知らなかった)。STAP騒動はこのブログに多くのネタを提供してくれた。このブログはSTAP騒動なしでは今日まで続けることはできなかった。その意味では私は小保方さんに感謝しなければならない。しかし、そのせいで私は「ブログを畳むという決断自体」ができない人になってしまった。小保方さんのせいで私もまた、さまよえるSTAP人になってしまったのである。

giveme5.hateblo.jp

私はすべてのSTAP人に言いたい。

「ほかにすることはないのですか?」

婦人公論 2018年 1/23 号 [雑誌]

今月号の表紙は全然知らない人でした。