シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

無毒化された揚げ足取り

サッちゃんは、本当はサチコというのだが、彼女はまだ、ちっちゃいから、自分のことをサッちゃんと呼ぶのである。別に何もおかしくない。おかしいのは医学博士であられる学とみ子さんが自分のことを「学とみ子」と呼んでいることである。ちなみに私は自分のことを「私」と呼んでいる。

というわけで、性格に問題のある私は、いきなり主義、主張でなく、揚げ足取りの内容からしても、ため息先生とそのお仲間たちの性格がよくでていると思います。 ( その他の病気 ) - 学とみ子のブログ - Yahoo!ブログに難癖をつけたわけであるが、それだけでは終わらない。次は揚げ足取りである。

揚げ足取りには私も傷つきますが、こうした内容を書いているので、世の中の常なのだろうと思います。免疫をつけるための抗原と思っています。

と、とみ子さんがブログに書いたところ

このブログ主の主張は意味不明な論旨が多く、批判すると「難癖、揚げ足取りと感じ」「揚げ足取りは免疫を付けるための抗原(2017/10/9(月) 午後 7:56 )」だそうで、批判を理解できないようです。

1つだけ残ったサイトは意味不明 | ため息^2ばかりのブログ

とため息先生から「難癖」をつけられた。そこで、とみ子さんは、理解していないのは、あなたですよと以下のように反論したわけである。

前の文章全体が”抗原”の中身です。つまり、“揚げ足取りをされて傷つくこと”が、刺激(抗原)として作用するという意味で、文章がかかれています。揚げ足取りだけが、抗原ではありません。 「揚げ足取りは免疫を付けるための抗原」では意味が通じません。「揚げ足取り(をされて傷つくことは)は免疫を付けるための抗原になる」と、学とみ子と言っています。

私に言わせれば、とみ子さんは「ものごと」の道理がわかっていない。「もの」と「こと」を混同している。STAP細胞(もの)とSTAP現象(こと)を混同してはならない。ウィトゲンシュタインは次のように言っている。

世界は成立していることがらの総体である。

論理哲学論考 (岩波文庫)p13

この「成立していることがら」を事実と呼び、次のように続ける。

世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。

事実とは現実に成立している「ことがら」(以下「こと」という)であるが、それとは別に成立することの可能な「こと」を事態と呼び「事実とは諸事態の成立である」と述べる。そして

事態とは諸対象(もの)の結合である。

事態の構成要素になりうることは、ものにとって本質的である。

と対象(もの)と事態(こと)の関係を述べる。では「もの」とは何か? 物(物質)だけが「もの」であるわけではない。 例えば「STAP細胞は多能性を持つ」という文で表現されているのは事態であって、事実ではない。STAP細胞が多能性を持つことは実証されていないから、現実にはその文章に対応する事態は成立していないからである。 STAP細胞は物(物質)であるから「もの」であることは自明である。では多能性はどうか? それは物(細胞)が持つ性質であって物ではない。しかし性質もまた「もの」に含めるべきだと私は考える。そうすれば「STAP細胞は多能性を持つ」という事態が二つの対象、すなわち「STAP細胞」と「多能性」の結合であると解釈できる。そして、その結合の仕方を規定するのが「持つ」ということばである。 

小保方晴子」という「もの」と「STAP細胞」は「小保方晴子STAP細胞を作った」という形で結合する。それが事実であるか、あるいは事態にとどまるか、それは「STAP細胞」という語の定義にかかっている。もし、それをOct4陽性の死にかけ細胞と定義するならば、事態は成立している。つまり小保方さんが何の役に立つかわからない死にかけ細胞を作ったことは事実である。

話がそれた。今回の記事の主人公は小保方さんではなく、彼女の熱烈な支持者である学とみ子さんである。とみ子さん曰く「“揚げ足取りをされて傷つくこと”が、刺激(抗原)として作用する」ならば、そもそも「抗原」という比喩を使う必要はない。ただたんに「揚げ足取りをされて傷つくことは免疫を付けるための刺激になる」と言えばすむ話である。

生体の免疫系は、慣れる現象(減感作と呼ぶ)が起きるという医学的事実を伝えようとしています。

という後付けの理由で、あえて「抗原」という比喩を使ったと説明しているが、そうすることによって「抗原」が、何かが何かを刺激する「こと」を指すということばであると誤解されるリスクを冒している。抗原は究極の「もの」、すなわち物質である。一方で「揚げ足取りをされて傷つくこと」は「もの」ではなく「こと」である、すなわち事実または事態である。

そこで、このような「こと」が、どのようにして起こったのかについて考察する。とみ子さんは、いかにして「揚げ足をとられた」と認識したのか。それは揚げ足取りのコメントを読んだからであると推測される。こうして「揚げ足取りのコメント」と「学とみ子」という二つの対象が二つの仕方で結合している。まず第一の結合(事態)は「学とみ子は揚げ足取りのコメントを読んだ」、そして第二の結合(事態)は「揚げ足取りのコメントは学とみ子を傷つけた」である。

さてここで揚げ足取りのコメントを、例えばアレルゲン(これも抗原の一種である)で置き換えると「学とみ子はアレルゲンを取り込んだ」「アレルゲンは学とみ子を(アレルギー症状の発症という形で)傷つけた」となる。揚げ足取りのコメント=抗原と解釈するほうが自然である。

また、とみ子さんは医学的な誤解を招くリスクも冒している。すなわち抗原に慣れる(抗原に対する免疫を獲得する)ためには、傷つく(症状を発症する)必要があるかのように。実際はそんなことはない。例えばアレルギーの治療法として「アレルゲンに対する個々の反応には、発症することなく見逃す最少の暴露量が存在している。ごく少量のアレルゲンを投与し、アレルギー症状を引き起こさないで見逃す暴露量を仕組み全体が『再調整』されるまで、徐々に投与量を増量して治療する」(アレルゲン免疫療法 - Wikipedia)という方法(減感作療法)がある。また感染症に対する免疫を獲得するのに「病原体から作られた無毒化あるいは弱毒カ化された抗原を投与することで、体内に病原体に対する抗体産生を促」(ワクチン - Wikipedia)すという方法がある。

というわけで私は自分の哲学的・医学的知識を開け散らかしたいがために、とみ子さんの揚げ足を取ったわけである。私の、この記事が、学とみ子さんにとってワクチンとなることを願って止まない。

論理哲学論考 (岩波文庫)