シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

数と「数学的」単位の数学的結合は不可能である。

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 上記記事において

「1皿に5個ずつ入ったみかんの4皿分の個数」という文には「個」と「皿」という二つの単位が登場する。この文の中で、どちらが数学的単位であり、どちらが言語的単位であるか

という問題を提起したとき、「個」と「皿」のどちらも言語的単位(助数詞)であり、「メートルなどを普通は物理単位と言います。数学で単位と言えば単位ベクトルなどのことでしょう」というコメントをいただいた。 このコメントにおいて数学的単位という語が誤解されているので、まず「数学的」単位について説明する。私の言う「数学的」単位とは(数学の世界における単位という意味ではなく)、例えば「一皿に5個ずつみかんがはいっているとして、その皿が4皿あるとき、みかんは全部でいくつあるか」という文章問題(算数の問題が言語の世界で提起される問題)の答となる数に付けられるべき単位のことである。まだ物理的単位を知らない子供にとっては、まず馴染み深い助数詞が「数学的」単位となる。先の例でいえば「個」が「数学的」単位である。そのとき、問題文の中でその単位と結合していた数を名数という。

掛け算の順序が問題となるのは二つの言語的単位の一方だけが「数学的」単位となる場合である。そのときもう一方の言語的単位は言語の世界に置き去りにされ、数とは絶縁する。そうすることによって皿の数(かず)4は、純粋な数(すう)となる(そのような数を不名数という)。問題文の中での、みかんと皿の関係において「皿」は言語の世界に取り残され、そこにのみ存在する言語的単位である。

名数は、不名数と掛け算という形式で関係すべきものである限りにおいて、名数なのである。それは、掛け算はできるが、まだ積という概念を持っていない子供に与えられるべきものであり、その概念を獲得した時点で捨て去るべきものである。

さて、この記事では「数学的」単位(仮にそれをUと記述する)を数学の世界持ち込むことが可能か否かを検証する。もし、それが可能なら、数を名数と不名数に区別する必要がなく、したがって掛け算の順序を問題にする必要はないことになる。

単位Uが数学の世界に居場所を確保するには二つの方法があると考えられる。第一は単位が数aと融合し、ひとつの記号となるという方法である。そのような例のひとつとしてdzが存在する。変数zがひとつの記号であるように、変数zの微分dzも、zとdが融合することによって生まれたひとつの記号である。 二つの記号が融合するということはひとつになるということ、すなわち(ひとつの記号zを二つに分離することが不可能なように)分離不可能になるということである。

aUがひとつの記号であるならば、それを数aと単位Uに分離することはできない。そうするとa+b=cである場合、なぜaU+bU=cUとなるのか、あるいはab=cである場合、なぜaU×b=cUとなるのか、説明できなくなる。 それを説明するにはaUが数と単位の結合体であると考えるしかない。

単位が数と数学的に結合すること、それが単位が数学の世界に潜入するもうひとつの方法である。この方法をとるならばaU+bU=(a+b)U=cUであり、またaU×b=b(aU)=(ab)U=cUであると説明できる。そしてaとUの数学的結合とは積であると説明されることになる。数aと「数学的」単位Uの積aUを(数から区別するために)量と呼ぶことにする。

そうすると量aUについては交換法則が成立する、すなわちaU=Uaであることになる。しかし現実において量を表すとき、単位は常に数の後ろに付けられる。 この点については、次のような反論が考えられる。確かに数と単位については、交換法則が成立する、だから単位を数の後ろに付けるのは、言語の世界におけるたんなる習慣にすぎず、この習慣を無視すれば、それを前に付けることは論理的には可能である、と。 また量が数と単位の積であるならば、数1に対して1U=Uが成立しなければならない。しかし現実には、それは1U記述され、Uと記述されることはない。これも同じく、その量を1Uと記述するのは、たんなる習慣にすぎず、それをUと記述することは論理的には可能である、との反論によって論破される。このように単位を数学の世界に持ち込んでも、論理的矛盾が生じることはない。

しかし、である。量が数と単位の積であるならばaU×b=(ab)U=a(bU)=bU×aが成立する。つまり式aU×b=bU×aが成立する。そうすると「一皿に5個ずつみかんがはいっているとして、その皿が4皿あるとき、みかんは全部でいくつあるか」という文章問題の正解は5個×4=20個だけではない。計算の順序を入れ替えた4×5個=20個はもちろん、4個×5=20個も正解である。 だが「Aの量はaUである」という文章は、UはAの量を表す単位であるということを含意しているのではないか。みかんの量を表わす単位「個」を、それが論理的に可能であるという理由だけで、皿の量を表わす数4と結合させるということには、違和感を覚えざるを得ない。

それだけではない。aU×b=ab×Uであるから、20×個=20個も正解としなければならない(もちろん、その答えを「個20」と記述しても誤りではない)。しかし20という数は計算式5×4=20、あるいは4×5=20から得られるものであるから、まず、その式のいずれかを記述する必要がある。そして問われているのはみかんの数であるから、みかんの単位である「個」と20を結合させる(この結合は機械的である)。だが、その後で計算式20×個=20個を記述することは、誰が考えても余計である。ということは、記述される式は5×4=20か4×5=20のいずれかであり(いずれを記述するかは自由だ)、そこから直ちに答として20個が記述される。これは、まさに自由派の人たちが、当該文章問題の解答の、あるべき姿として推奨するものである。では彼らは数と単位の結合を積だと考えているのだろうか。もちろん、そんなことはない。彼らとて、答えを「20個」と記述するか、「個20」と記述するかは、子供の自由だ、などという過激な発言はしていない。では自由派は数20と単位「個」の結合をどのように考えているのか。おそらく何も考えていないのであろう。というのも、ある習慣が身についている人が、その習慣に従って、その行為を行うとき、何も考えないからである。

さて検証の結果、数と単位の結合を積と規定するならば、そして言語における習慣を無視するならば、単位を数学の世界に持ち込むことは論理的には可能であるという結論に至った。では、単位を数学の世界に持ち込むべきなのか。もちろん、否である。そのようなことは論理的に可能であっても、現実的には不可能である。

 

『数と「数学的」単位の自由な結合は必然である。』に続く