シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

教育と研究の分離

研究時間がない、研究に対するモチベーションが維持できない、そんな大学教授の嘆きが綴られている記事を見た。

natureで言われている研究費減少の影響も大きいが、まずは研究時間が無いことにはどうにもならない。
そして、意外と大事な要因がモチベーションだ。

現役工学系教授からみた日本の大学の惨状

教授から研究時間を奪い、モチベーションを低下させている諸悪の根源、それが「研究以外の不毛な業務」である。

自分で言うのもなんだが、たとえば実験用のプログラム開発の能力など、そこらへんの大学院の学生の10倍か数十倍の生産性がある自信がある。
だけど、今ではその生産性の低い学生(留学生含む)を手厚く面倒みながら、自分は事務書類に追われ、試験監督したり、クラス連絡会とかオリエンテーションとか企画して、引きこもりで出てこない学生の両親に電話相談したり、大学説明会、オープンキャンパス、市民講座とかに駆り出され、はては高校訪問などの営業までやらされているのだから、まあ専門能力の無駄遣いかな、もったいないよねとは思う。

(同上)

 だが、しかし「生産性の低い学生(留学生含む)を手厚く面倒み」ること、これは所謂「教育」ではないのか。だとすれば、これは決して「不毛な業務」ではないはずだ。しかし研究に専念したい教授からすれば、教育など「不毛な業務」に思えるのであろう。

大学は研究機関であると同時に教育機関でもある。しかし、この二足の草鞋は、もはや限界にきているのではないか。研究は理研などの純粋な研究機関が行い、大学は純粋な教育機関に徹すべきではないのか。「生産性の低い学生」の生産性を向上させることは、専門能力がなければ不可能であるし、そうすることは決して「専門能力の無駄遣い」ではないはずだ。

ところで大学というところが、いかに教育に不熱心であるかを告発した林達夫の文章がある。林自身(この文章を書いた当時、明治大学文学部講師であった)、自分も「教育の仕事に一向生甲斐を感じない」と告白しつつ、その原因の一端は大学という制度にもあると述べ、「アカデミックなものに対する闘争」を主張している。

教育者の職能は(中略)学生の主要能力を発掘しあるいは発揮させること、隠れたる他の能力の萌芽も摘むことなくそれらを出来るだけ伸ばしてやること、その能力の個性的な顕われ方に適切な方途を見つけてやること、等々といった(中略)至難なわざであろう。実は初等教育などでは、(中略)ある程度この方向への新しい第一歩を踏み出してある成果を挙げてはいる。しかるにそのような教育原理の生みの親となった、新しい学問の開拓の功を誇る当の最高学府が教育の刷新という点では全く保守的で、時代遅れであるということは、何といっても天下の奇観といわなければならない。

林達夫評論集 (岩波文庫)』「十字路に立つ大学」p71

要するに大学は教育理論の研究はするが、教育はしないというわけである。学業を怠る学生に対する大学の対応は放置である。放置してはいません、きちんとケアしていますという大学があるとしても、実際にそれを行う人間が、それを「不毛な業務」と捉えていたならば、あまり効果は期待できないのではないか。

ちなみに「十字路に立つ大学」が発表されたのは1949年、約60年も前である。当時、大学進学率は10%未満であったが、現在では50%を超える。大学進学率が10%未満であっても、林をして「恐らくその大部分はその生涯のうちにたった一度だって進んで研究らしい研究などしないというのが実情であろう」と言わしめたぐらいであるから、それが5倍になった現在、「研究」とは無縁な若者が大挙して大学に押し寄せているはずである。そうした若者に教育を与えるのが大学、「アカデミックなもの」を追求するのが研究所という具合に棲み分けをするのが合理的ではないか。

その場合、ふたつの課題が提起される。ひとつは「アカデミックなもの」に執着する大学教授をどうするかという問題、もうひとつは教育に熱意があり、かつ高度な専門知識を有する人材をどう確保するかという問題である。

林達夫評論集 (岩波文庫 青 155-1)