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シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

数と数学的単位の結合は矛盾である。

ameblo.jp

今回も前回に引き続き上記の高橋誠さんの記事から引用させていただきます。

高木貞治、曰く

「一時間に十二里ずつ行く汽車は,四時間に幾里を行くべきか。」という問題では,「十二里(被乗数)に四(乗数)を掛け,積として四十八里を得たるなり(之を十二里に四時間を掛けたりとは言うべからず)。」

「十二里(被乗数)」と言っているように、また名数の実例として「五冊,四十人,三尺,八升など」を挙げていることからして、高木は名数を数と単位の結合体と考えていたようである(だとすれば、それは数ではない)。しかし、私の言う単位数は、数学的単位と結合しているである(つまり単位数もまた数である)。数学者である高木は名数を数(単位数)と単位(数学的単位)に分離することを恐れたのではないか。なぜなら両者を分離すれば、両者の結合が問題になるからである。

数と数学的単位の結合は積である。

数学的単位が言語的単位(助数詞)と区別されるのは、この点にある。

三つの数a、b、cはa×b=cという関係にあるとする。aが単位数であり(その数学的単位はUとする)、そしてbは無単位数であるとする。その場合、cは単位数であり、その数学的単位がU(aU×b=cU)であることは、aとUが積という形式で結合していることで説明できる。すなわち

          aU×b=(a×U)×b=(a×b)×U=cU

また同じ単位を持つ単位数の割り算の結果は無単位数である、例えばcU÷aU=bとなる。このことも単位数c、aと単位Uの結合が積であることで説明できる。

さらに単位数a、bがそれぞれ異なる単位U、Vを有する場合の積についてであるが

          aU×bV=cUV

における単位UVは単位UとVの積であると考えられる。例えば縦am(aメートル)、横bmの四角形の面積はc㎡(c平方メートル)であるが、この面積の単位㎡の由来がm×mであることは疑いない。

数と数学的単位の結合は積ではない。

単位は、それが数学的と形容されても、数ではない。したがって数と数学的単位が積という形式で結合することはありえない。もし両者の結合が積であるならば

          aU×b=(a×U)×b=a×(U×b)=a×(b×U)=a×bU

という手順で単位数aの単位は無単位数bに奪われてしまう。つまりa×bという掛け算においてどちらが単位数でどちらが無単位数かという問が無意義になってしまう。それはタコが2匹いるとき、2本足のタコが(8匹)いることを意味する。

単位数aと無単位数bの掛け算をb×aと記述することは誤りではない(交換法則a×b=b×aによって正当化されるという意味で)が、単位数aと数学的単位Uの結合体をUaと記述することは誤りである(aとUの結合は積ではないから、交換法則aU=Uaによって正当化されることはないという意味で)。

単位数と数学的単位の結合は積ではないという点で、数学的単位は言語的単位(助数詞)から区別されない。

数と数学的単位の結合は矛盾である。

両者の結合は積であり、かつ積でない。つまり矛盾である。だから数学者は、この結合について本能的に議論を避けているのではないだろうか。その結果、単位数と無単位数の区別について明確に語らない。もちろん矛盾とされる、単位数と数学的単位の結合については子供はもちろん、大人も無関心であっていい。しかし単位数と無単位数の区別については、そうではない。子供が言語的単位と区別されるべき数学的単位があるということ、そして数学の対象である無単位数(抽象的な数)があるということを認識することは重要である。そしてまた「ある」ということを認識するだけで充分である。数学的単位とはなんであるか、数とはなんであるか、ということは考えなくてもいい。

aUは一面では積である。しかしa×Uという合理的形式で分離することはできない「積」である。合理的に分離できないならば、「暴力」に訴えるしかない。すなわち(aU×bと記述しないで)a×bと記述することによってaとUを物理的に分離するのである。

しかし問題文には「XがaU入ったYがbWあります、Xは全部で幾つありますか」とあり、bにも単位Wがある。掛け算の式a×bを記述するということは、この「bW」から無単位数bを抽象するという意義と、単位数aを物理的に単位Uから引き離すという意義がある。

 数aと数bは異なる数である。しかし「数である」という点では同一である、というわけではない。その差異を認識することが第一歩である。数aは「×」の前に、数bはその後ろに位置している。それが目で見て判る差異である。問題は、この差異の意味は何であるのか、である。

その意味は掛け算a×bの結果である数cと単位Uを物理的に結合させる、すなわち答の欄にcUと記述することによって把握される。問題文ではXはaUという姿で現れた。そして答の欄ではXはcUという姿で現れる。aUとcUを繋ぐものが式a×b=cである。この式の中に単位Uは見出すことはできない。それはUが記述されていない(それを記述すべきではない)からである。それでも数aは何らかの(奇妙な)仕方で単位Uと結合している。この目には見えない奇妙な「結合」がUを数学的単位たらしめている。「五冊,四十人,三尺,八升など」に見られる言語的単位には常に目に見える形で数と融合し、ひとつの言語として機能している。単位を数学的にするためには、それを式の中に持ち込んではならない。

そして単位数aとの対比において、数bは単位から完全に開放された数、無単位数として把握されることになる。この対比において、目に見える違い(a×b)の意味を把握することが重要である。そして一度見ただけで、その意味が把握できるものではない。だからそのためには習慣に従って、式は常に(単位数)×(無単位数)という順序で記述するよう指導(訓練)すべきである。

 考えることを強制するな。

掛け算の順序自由派は順序を強制しない代わりに、考えることを強制する。というのもa×b、b×aどちらの式を記述してもいいということは、どちらの式を記述するかを考えなければならないからである。そして多くの子供は最も短絡的な考えに従って、式を記述する。すなわち問題文で先に登場した数がaならば、式をa×bと記述し、それがbならばb×aと記述する。このような機械的な考えは何も考えていないに等しい。そんな浅はかな考えに従うぐらいなら、何も考えずに習慣に従え、そして習慣を身につけろ、と私は言いたい。

そもそも、1の次の数を2と記述すること、その次の数字を3と記述すること、等々は習慣である。私たちはこの習慣を身に着けることで、数の最も素朴な概念を把握したのではないか。

最後に例によってウィトゲンシュタインを引用する。

「しかしそれでは、数学に特有な仮借のなさはどこにあるのか。」━1のつぎに2が、2のつぎに3がどうしようもなくくるのは、このよい例ではなかろうか。━だが、それは基数列の中でつぎにくるということであろう。というのは別の数列の中では違ったものがつぎにくるのだから。そしてこの数列は、まさにこの継起によって定義されているのではないか。━「ではそれは、人はどんな仕方で数えようと同様に正しい、誰もが好きなように数えてよい、ということか。」-かりに誰もが何らかの仕方で数字を順番に発音したとしてもそれを「数える」とはいわないであろう〔中略〕なぜなら、われわれが「数える」と呼ぶところのものは、われわれの日常活動の重要な一部だからである。

ウィトゲンシュタイン全集 7 数学の基礎p26

解析概論 改訂第3版 軽装版