シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

助数詞から単位へ~「かけ算の順序」論争に寄せて~

先生は生徒に算数のテストを配った。そのテストには「プリンが3個ずつ入ったパックが4パックあります。プリンは全部で幾つありますか」という問題が書かれていた。

A君は「3×4=12」という式を書き、そして答えの欄に「12個」と書いた。

B君は「4×3=12」という式を書き、そして答えの欄に「12個」と書いた。

A君は100点満点であったが、B君は50点であった。B君の場合、答えは正しいが、式が間違っているとされたのである。

これに対してB君のママは「3×4=4×3というのは一般的な常識であるし、数学上、交換法則にもとづく真理でもある」と先生に抗議した。さて正しいのは先生か、それともBママか?

私は式が間違っているとした先生の肩をもつ。ただし、数学的観点からは間違っていない。確かに3×4=4×3は数学的真理である。ただ、B君の書いた式は算数の習慣に従っていないから間違いなのである。「× の左側に一つ分の数(かけられる数、被乗数)、右側にいくつ分にあたる数(かける数、乗数)を書」くのが算数(数学ではない)の(日本における)習慣なのである。

問題は「プリンが3個」と「パックが4パック」の違いを識別することである。先生が出した問題の中で、前者の「個」は単位であり、後者の「パック」は助数詞である。本来、純粋数学の世界には単位という概念はない(虚数単位は例外である)。しかし、数学(算数)を応用する(学問的応用であれ、日常的応用であれ)際には単位は不可欠である。これにたいして助数詞は数学とは無縁の言語的概念である。しかしまた、子供はまず、助数詞を覚える。「4パック」は数詞「4」と助数詞「パック」が融合してできたひとつのことばである。こうした融合は言語において珍しくない。たとえば「下駄」と「箱」が融合して「下駄箱」というひとつのことばが生まれる。それが新たなひとつのことばであることは、そこにしまうものが物が下駄ではなく、靴となっても、いぜんそれは「下駄箱」と呼ばれることによって示される。

この「4パック」ということばを、数学的存在にするために、それから助数詞「パック」をそぎ落とし、「4」を自然数にする。しかし「3個」はひとつでも、ことばでもない。それは自然数3と単位「個」が数学的に結合してできた非言語的結合体(その結合は積と呼ばれる)である。そこで子供たちがすでに持っている助数詞という概念を単位という概念に昇華させる必要がある。しかしこれまで述べた来たようなことを、小学校低学年の子供たちに話してもチンプンカンプンであろう。

そこで「プリンが3個ずつ入ったパックが4パックあります。プリンは全部で幾つありますか」という問題を出すことによって、この問題のふたつの数を「単位のある数」(以下「単位数」という)と「単位の無い数」(以下「無単位数」という)に区別する、正確に言えば、単位数をそうでない数から識別する訓練を行うのである。なお厳密には、両方とも単位数であり、3個/パックと4パックの掛け算であるという「正しい」主張は、単位という概念が確立していない子供たちに、ただ混乱をもたらすだけである。重要なのは単位数を識別することである。だから単位のある数と無い数の掛け算という形に単純化する。その際、単位数の単位は何であってもいい。なぜなら、この段階でいう単位とは、科学的概念としての計量単位ではなく、「個」「匹」「本」「枚」など、助数詞由来のものであるからである。この段階で重要なのは単位(それが何であれ)があるということを認識させることである。

もうひとつ重要なことは数式の中には単位を記述してはいけないということである。もしそれが許されるなら「3個×4=12個」あるいは「4×3個=12個」のどちらの式も正解としていい。しかし、それは許されない。だから単位数を無単位数から区別するには、掛け算において、どちらを左側に書くかで表現するしかない。

しかし、子供が単位数と無単位数の区別を認識していれば、それで十分であり、そのことを式で表現することまで要求する必要はないのではないか、という反論が予想される。この反論に対して私は、それは逆だと言いたい。子供たちは習慣に従って表現する(式を記述する)ことで、両者の区別を(徐々に)認識するのだ。単位数を左側に書くということは単位という概念を(理解するのではなく)身に着けるための訓練である。単位数は習慣に従って、常に左側に書くという訓練によって、子供はそれが単位数であることを実感するのである。そこには理屈はない。ただ習慣に従うという盲目的実践があるだけである。そして単位があることを認識して、はじめて子供は「単位とは何か?」という問に至る。

6×4と書いた子どもがいたら、バツをつけるまえに(中略)いいかわるいかを討議させるといいだろう。そうすると、その討議の過程で、その子がまちがっていたら、なぜ誤りとされたかを納得するだろう。また、4×6と書いた子どもも、その子の説明をきいて6×4の考え方がわかって、賛成するかもしれない。(中略)バツをつけて終わりにしたら、せっかくのチャンスをのがすことになってしまう。

子供が「なぜ誤りとされたかを納得する」ことはありえない。習慣というものは、何の理由もなく、理不尽に、そして仮借なく「そうする」ことを強制するものであるのだから。

※ 引用はすべてかけ算の順序問題 - Wikipediaからである。