シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

ウィトゲンシュタインは『資本論』を読んでいた!?

あるブログでピエロ・スラッファという経済学者の存在を知った。

ピエロ・スラッファ(Piero Sraffa、1898年8月5日 - 1983年9月3日)は、イタリア出身の経済学者。ケンブリッジ大学などで教授を務めた。カフェテリア・グループの一人。「サーカス」(ケインズサーカス)の一員であった。

 

 1922年には、ミラノ大学ペルージャ大学、カリアリ大学の政治経済学の教授を歴任し、そのころイタリア共産党の指導者であるアントニオ・グラムシとも出会った。スラッファは当時急進的なマルクス主義者であり、彼らは信念を共有しあった親密な友人であった。

 

1927年、スラッファはその政治信条と革命家グラムシへの友情を危険視されながらも、ケインズを通じてケンブリッジ大学へ招聘され、講師の職を提供された。彼はフランク・ラムゼイやヴィトゲンシュタインとともに〈カフェテリア・グループ〉と呼ばれた非公式のクラブをつくり、そこでケインズの確率論やハイエク景気変動理論について議論をおこなった。

 

ヴィトゲンシュタインの言葉によれば「スラッファの論理は鋭く、それに触れると文脈の余分な枝葉は切り払われて裸になってしまう」と。

ピエロ・スラッファ - Wikipedia

 スラッファはマルクス主義であり、かつウィトゲンシュタインとも親交があった。この事実を知って、私はずっと疑問に思っていたこと、「ウィトゲンシュタインは『資本論』を読んだことがあるのではないか?」に一定の答えを得た気がする。マルクス主義者というものは、自らの「聖書」である『資本論』を他人に読むことを薦めるのが常である。ウィトゲンシュタインがスラッファの「鋭い論理」によって「裸になってしまい」、彼に薦められるままに『資本論』を読んだということは大いにあり得る話である。

 ところで私が「ウィトゲンシュタインは『資本論』を読んだことがあるのではないか?」という疑問を持つようになったのは、彼の著作に次のような箇所があるからである。

 こう言ってみよう。論理学の命題ばかりでなく経験命題の形式を具えた命題も、思想(言語)の操作の基盤をかたちづくるものである。このことは、「私は……を知っている」という仕方で確認されるのではない。「私は……を知っている」は私の知識を言いあらわし、それは論理学的な関心の対象にはならないのである。
この指摘に含まれている「経験命題の形式を具えた命題」という言葉からして、実にまずい表現である。それはさまざまな対象に関する言明のことなのだ。しかもそうした言明は、偽であることが証明されれば別の言明に置き換えられる仮説として思考の基盤になっているのではない。
……安んじてこう書く。
初にわざ業ありき。

ウィトゲンシュタイン全集 9  確実性の問題 p99

 この最後の二つの文は明らかにゲーテの『ファウスト』からの引用である。ファウストが聖書を翻訳するに際して「初めにことばありき!」について疑問を呈する。

こう書いてある「初めにことばありき!」

ここでわしはもうつかえる!誰かわしを助けて先へ進ませてくれないか。

わしはことばというものをそう高く値ぶみすることはできない。

わしは霊の光に正しく照らされているなら、別に訳さなくてはならない。

こう書いてある「初めに意味ありき」

ペンが先走りせぬように第一行をよく考えよ!

一切を切りだすものは意味だろうか。

こう書いてあるべきだ「はじめに力ありき!」

しかし、こう書きつけているうちに、もうこれでは済まされないと警告するものがある。

霊の助けに、不意に思いついて

安んじてこう書く「はじめに行いありき」

ファウスト〈第一部〉 (岩波文庫)

そしてウィトゲンシュタインに先んじて、「はじめに行いありき」を引用したのがマルクスである。『資本論』には次のような記述がある。

もっと詳細に見るならば、すべての商品所有者にたいして、あらゆる他人の商品は、彼の商品の特別な等価となっている。したがって彼の商品は、またすべての商品の一般的な等価となる。しかしながら、すべての商品所有者が同一のことをするのであるから、いずれの商品も一般的の等価ではなく、したがって、諸商品は、それが価値として等置され、また価値の大いさとして比較されるべき、何らの一般的相対的価値形態をもっていない。したがって、諸商品は一般に商品として対立するのではなくして、ただ生産物または使用価値として対立するのである。

わが商品所有者たちは、困り果てて、ファウストのように考える。初めに行ないありき。したがって彼らは、彼らが考える前にすでに行なっていたのである。

 資本論 1 (岩波文庫) 第2章 交換過程 

この「 彼らは、彼らが考える前にすでに行なっていたのである」というマルクスの主張は 「さまざまな対象に関する言明」が「仮説として思考の基盤になっているのではない」というウィトゲンシュタインの主張に対応する。つまりウィトゲンシュタインの主張をマルクス流に言えば「 彼らは、彼らが(それが真か偽かを)考える前にすでに言明していたのである」となるのではないか。

マルクスは言う。

価値は、むしろあらゆる労働生産物を、社会的の象形文字に転化するのである。後になって、人間は、彼ら自身の社会的生産物の秘密を探るために、この象形文字の意味を解こうと試みる。なぜかというに、使用対象の価値としての規定は、言語と同様に彼らの社会的な生産物であるからである。

資本論 1 (岩波文庫) 第1章第4節 商品の物神的性格とその秘密

言語にこだわったウィトゲンシュタインが、このマルクスの主張に興味を持ったと想像することは自然ではなかろうか。

もちろん、ウィトゲンシュタインが直接、マルクスに言及した記述は、私の知る限りにおいては、無い。したがって『資本論』がウィトゲンシュタインの思想にどのような影響を与えたかを論じることは、彼がその書物を読んだという事実が確認されない限り、無意義である。

ウィトゲンシュタイン全集 9 確実性の問題