シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

『雪渡り』~宮澤賢治が仕掛けた「罠」~(前編)

ドラマ『悪夢ちゃん』で北川景子演じる教師は次のように教える。

文部科学省が何と言おうと、先生は四郎とかん子が狐の学校に行って、狐のこしらえた黍団子(きびだんご)を悪いものと思わずに食べたのは、狐の紺三郎を信じたからではなく、その場の空気を読んだからだと思っています。 その結果、狐の生徒達は感動し、これからも人に”うそ”をつかず、人をそねまない大人になろうと誓いました。」「だけど先生は、それを信じることはできません。だから先生もその場の空気を読ませるためにみんなに信じてもらおうとか、尊敬されようとは思いません。学校は一人一人が他の人間に囲まれて生きている場所です。その場の空気を読むことも人間に備わった大事な能力です。世の中を生き抜く術(すべ)としては大事なことです。」
「しかし、いくら空気を読んだからといっても狐のこしらえた黍団子を食べるべきではなかったと先生は思います。お腹をこわす確率はかなり高かった。 それでも皆さんなら食べますか? それでもそこまで考えて『私は食べる』というのなら、それはあなたの自由です。」

悪夢ちゃん 第4話〜邪夢(ジャム)を吐く少女 | 世事熟視〜コソダチP

 宮沢賢治の童話『雪渡り』に対する通説(文部科学省的解釈)とは異なる解釈である。そしてこの解釈の方が妥当だと考えられる記述が『雪渡り』には存在するのである。ただこの解釈では物語はまったく感動的な話にはならない。
雪渡り』は「しっかりした子供だらしない大人」を対比させている。そして物語は「疑う人間と疑われる狐」という対立関係を前提として出発し、最後にはその関係が「信じる人間と誠実な狐」という形で信頼関係に転化することで終わる。通説ではそう解釈されている。しかし本当にそうだろうか。『雪渡り』には随所に不可解なピースがちりばめられている。しかし、視点を変えれば、それらが合理的なものとなるのである。

雪渡りとは「すっかり凍って大理石よりも堅く」なった雪の上を歩いて、(どこかへ)行くことである。物語は兄(四郎)と妹(かん子)が雪渡りをしている場面から始まる。それは深く積もった、そして固く凍った雪によって、地上にあるすべての物が覆いつくされた日の話である。

こんな面白い日が、またとあるでしょうか。いつもは歩けない黍の畑の中でも、すすきで一杯だった野原の上でも、すきな方へどこ迄でも行けるのです。平らなことはまるで一枚の板です。そしてそれが沢山の小さな小さな鏡のようにキラキラキラキラ光るのです。

宮沢賢治 雪渡り(引用に際してルビはすべて省略した。ルビが必要と思われる漢字にはその後ろに()を用いて、その読みを記述した。また強調は引用者によるものである。)

「どこ迄でも行ける」、まずこの言葉に注意したい。それは(後述するように)「もはや引き返すことのできない世界にまでも行ける」と解釈することができる。
二人は森の中で子狐と出会う。

「凍み雪しんしん、堅雪かんかん。」と云いながら、キシリキシリ雪をふんで白い狐の子が出て来ました。
四郎は少しぎょっとしてかん子をうしろにかばって、しっかり足をふんばって叫びました。
「狐こんこん白狐、お嫁ほしけりゃ、とってやろよ。」
すると狐がまだまるで小さいくせに銀の針のようなおひげをピンと一つひねって云いました。
「四郎はしんこ、かん子はかんこ、おらはお嫁はいらないよ。」
四郎が笑って云いました。
「狐こんこん、狐の子、お嫁がいらなきゃ餅やろか。」
すると狐の子も頭を二つ三つ振って面白そうに云いました。
「四郎はしんこ、かん子はかんこ、黍(きび)の団子をおれやろか。」

子狐は、なぜか兄と妹の名前(四郎とかん子)を知っている。このことは、子狐と二人の出会いは偶然ではないことを示唆している。子狐の方から二人に接触してきたのである。
また「お嫁はいらない」という子狐は「嫁」ではない何か別のもの、しかも「嫁」に近しい何かを欲しているように感じられる。というのも「嫁」の代わりに提示された代替品は「嫁」とはほど遠い物、「餅」であり、子狐は、それをやるという四郎の提案を、話にならないとばかりに無視しているからである。「餅をやろうか」という四郎の言葉に対する子狐の反応は「黍団子をやろうか」である。
なお、子狐がひげをひねる仕草は、その後に発せられる言葉に重要なメッセージが込められているという作者からのサインである、と私は解釈する。

かん子もあんまり面白いので四郎のうしろにかくれたままそっと歌いました。
「狐こんこん狐の子、狐の団子は兎のくそ。」
すると小狐紺三郎が笑って云いました。
「いいえ、決してそんなことはありません。あなた方のような立派なお方が兎の茶色の団子なんか召しあがるもんですか。私らは全体いままで人をだますなんてあんまりむじつの罪をきせられていたのです。」

子狐の紺三郎が好意でプレゼントしようと言っている団子を「兎のくそ」だとする発言は紺三郎を侮辱するものであり、紺三郎は怒って当然の場面である。にもかかわらず紺三郎は怒るどころか、笑いながら言う、狐が人を騙すという話は作り話だ、と。実に冷静な、「大人」の対応である。しかも侮辱した相手を「あなた方のような立派なお方」と持ち上げる。紺三郎には何か魂胆があるのではないかと疑いたくなるのは、私だけであろうか。
しかし四郎はそんなことより、狐が人を騙すという話は作り話だという紺三郎の主張に興味を惹かれる。
なお、この物語では触れられていないが、狐については「人を騙す」の他に、もうひとつよく知られた伝説がある。狐は神の使いであるという説である。

四郎がおどろいて尋ねました。
「そいじゃきつねが人をだますなんて偽(うそ)かしら。」
紺三郎が熱心に云いました。
「偽ですとも。けだし最もひどい偽です。だまされたという人は大抵お酒に酔ったり、臆病でくるくるしたりした人です。面白いですよ。甚兵衛さんがこの前、月夜の晩私たちのお家の前に坐って一晩じょうるりをやりましたよ。私らはみんな出て見たのです。」
四郎が叫びました。
甚兵衛さんならじょうるりじゃないや。きっと浪花ぶしだぜ。」

私が『雪渡り』を読んで、最初に引っかかったのか、このくだりである。作者はなぜ、紺三郎に間違った証言をさせ、四郎にその証言の訂正をさせるのか。あえて、一見どうでもいい話(これをどうでもいい話としてやり過ごすか、そこにこだわるかでこの作品に対する評価が全然違ったものになる)を導入する作者の意図は何であるのか。
紺三郎は、狐が人を騙すという話は嘘だと熱心に語る。騙されたと証言する人は酔っていたりして、正気ではないので、その証言は当てにならない。実際に紺三郎は、甚兵衛が酒に酔って一晩中、浄瑠璃をやっていたのを目撃したと証言する。だが四郎は甚兵衛の趣味が浪花節であることを知っていたので、その誤りを指摘する。一般に証言の一部に誤りがあれば、その証言全体の信憑性が低くなる。
さて、自分の証言を一部、否定された紺三郎は、その否定に反論することなく(この話題から話をそらすように)、自分が用意した団子は正真正銘の黍団子であることを詳しく説明する。

子狐紺三郎はなるほどという顔をして、
「ええ、そうかもしれません。とにかくお団子をおあがりなさい。私のさしあげるのは、ちゃんと私が畑を作って播いて草をとって刈って叩いて粉にして練ってむしてお砂糖をかけたのです。いかがですか。一皿さしあげましょう。」
「紺三郎さん、僕らは丁度いまね、お餅をたべて来たんだからおなかが減らないんだよ。この次におよばれしようか。」
子狐の紺三郎が嬉しがってみじかい腕をばたばたして云いました。

先に私は紺三郎が用意した団子を「プレゼント」だと言ったが、正確に言うとそうではない。紺三郎は今、この場(森の中)で団子を食べることを四郎とかん子に要求しているのである。おなかが減ったときに食べればいいと、四郎に団子を手渡すことはしない。団子を家に持って帰られては困るのだ。そうすると今ここにいる二人以外の者が団子を食する可能性があるからである。
紺三郎の魂胆は森の中で四郎とかん子、この二人だけに団子を食べさせることである。しかし、その目論見は失敗に終わった。それでも紺三郎は嬉しがっている。それは彼の計画が完全に失敗したわけではないからである。
紺三郎は甚兵衛に関する証言において重大な間違いを行った。「浄瑠璃」と「浪花節」の取り違えである。本当のところ、あの目撃証言はすべて作り話、完全な捏造だったのである。紺三郎は、そのことが四郎に見破られていないか不安を感じている。おなかが減っていないは団子を食べない口実ではないのか。だが四郎は「この次におよばれしよう」とも言った。まだ可能性はある。そして「この次」は必ず成功させると、紺三郎は心に誓った。今回、失敗した場合に備え、すでに「幻燈会」なる催しを計画していた。

「そうですか。そんなら今度幻燈会のときさしあげましょう。幻燈会にはきっといらっしゃい。この次の雪の凍った月夜の晩です。八時からはじめますから、入場券をあげて置きましょう。何枚あげましょうか。」
「そんなら五枚お呉れ。」と四郎が云いました。
「五枚ですか。あなた方が二枚にあとの三枚はどなたですか。」と紺三郎が云いました。
「兄さんたちだ。」と四郎が答えますと、
「兄さんたちは十一歳以下ですか。」と紺三郎が又尋ねました。
「いや小兄さんは四年生だからね、八つの四つで十二歳。」と四郎が云いました。
すると紺三郎は尤もらしく又おひげを一つひねって云いました。
「それでは残念ですが兄さんたちはお断わりです。あなた方だけいらっしゃい。特別席をとって置きますから、面白いんですよ。幻燈は第一が『お酒をのむべからず。』これはあなたの村の太右衛門さんと、清作さんがお酒をのんでとうとう目がくらんで野原にあるへんてこなおまんじゅうや、おそばを喰べようとした所です。私も写真の中にうつっています。第二が『わなに注意せよ。』これは私共のこん兵衛が野原でわなにかかったのを画いたのです。絵です。写真ではありません。第三が『火を軽べつすべからず。』これは私共のこん助があなたのお家へ行って尻尾を焼いた景色です。ぜひおいで下さい。」

紺三郎は、四郎が(幻燈会に)行くと返事をする前に、入場券は何枚必要かと四郎に尋ねる。行くか行かないか、それを考える余裕を与えないしためである。また紺三郎は四郎とかん子以外の者も幻燈会に来場してほしいようである。そこで四郎は兄たちの分も要求すると、兄の年齢を確認する。四郎が最も若い兄が十二歳だと答えると、紺三郎はひげをひねってから、言う。彼がこれから言うことには、(私の解釈によれば)作者からの重要なメッセージが含まれているはずである。
紺三郎はまず、幻燈会に年齢制限があることを理由に兄たちの来場を拒否する。これは四郎の兄たちが、すでに「大人」であることを示唆している。
次に紺三郎は幻燈会の内容を説明する。しかし、作者は、なぜここで説明しようとするのか。後に実際の幻燈会の様子が描写されるのであるから、ここでの説明は余計なものと思える。「私も写真の中にうつっています」「絵です。写真ではありません」という紺三郎の言葉に、そのヒントが隠されている。作者の意図は「太右衛門と清作が酔っ払って、変なものを食べている」様子を写した写真が存在するというメッセージを伝えることである。では、なぜ今ここで、紺三郎にそのことを言わせる必要があるか。それは甚兵衛に関する証言において紺三郎が間違いを犯したこと、そしてそのことからその証言全体の信憑性を疑っているかもしれない四郎に太右衛門と清作についての(証言ではなく)写真という確実で客観的「証拠」があることを印象付けるためである。しかしその写真は本当に真正なものなのか。もし、そうならば、紺三郎の主張、すなわち「騙されたという人はお酒に酔っている」が真実となり、彼は甚兵衛に関する証言を捏造する必要などなかったことになる。もちろん、もともと紺三郎は証言を捏造などしていないという通説の解釈も可能である。しかし、そうすると「甚兵衛さんならじょうるりじゃないや。きっと浪花ぶしだぜ。」と四郎に叫ばせた作者の意図がわからなくなる。紺三郎がたんなる勘違いをし、その「たんなる勘違い」に四郎が気付いたというだけの話なら、そんな話をこの物語の中に置く必然性が、私には理解できない。
そして三度、紺三郎はひげをひねる。

狐が又ひげをひねって云いました。
雪が柔らかになるといけませんからもうお帰りなさい。今度月夜に雪が凍ったらきっとおいで下さい。さっきの幻燈をやりますから。」

この紺三郎の言葉に込められた作者のメッセージは雪渡りの危険性である。雪渡りには常に、帰ることができないというリスクが伴う。『雪渡り』という物語における雪渡りとは、二度と帰ることのできない旅のメタファーである。

雪わたり (福音館創作童話シリーズ)