シュレディンガーの狸

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オボカタ教からオボカタ原理主義へ~神聖四文字の変遷~

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神聖四文字(テトラグラマトン)は旧約聖書においては古代イスラエル唯一神の名(YHWH)であり、日本では昔はエホバ、今はヤハウェと表記されている。しかし、とある聖書では、その神の名がSTAPとなっている。ただしそれが神の名とされているのはオボカタ教の旧約聖書に相当する『分化状態の記憶を消去し初期化する原理』においてであり、新約聖書に相当する『あの日』では、その名が指し示しているのは神が全能性を獲得する現象であるとされている。
その解釈では神は普通の状態で存在する限りにおいては全能ではないことになる。ただ神に死に至るほどの強烈なストレスを与えると全能性を獲得するのであるが、ただそのことは神が緑色に光ることによって確認されるだけである。神が本当に全能となったのかどうかを確かめる方法はない。
この解釈に異を唱えたのが哲学者ニーチェである。彼は、神は死にそうになると光を放つと主張した。そして「神は死んだ」という言葉を残して、ニーチェは死んだ。
このニーチェの主張に対して、オボカタ教信者は次のように反論する。確かに神は死ぬときには光る。しかしそれは色々な光を含んでいる。緑色にしか光らないのは神が全能性を獲得した証拠である。以上がオボカタ教の主張である。オボカタは200回以上神を緑色に光らせたという伝説があるが、この伝説に対しても、反オボカタ教派は緑色に光るだけでは、神が全能となったとは言えないと批判する。さらに無神論者からは、そもそも全能の神など存在しないと批判される。いずれにせよオボカタ教の教義が「STAP(全能の神)は存在する」から「STAP(神が緑色に光る現象)は確認された」に変更されたことは、この宗教の一大転機となったことは間違いない。


オボカタの使徒のひとりである和歌山のテルは神を増殖させることに成功したと伝えられている。しかし、神は唯一の存在であり、神を増殖させることなど、神に対する冒涜だと他の使徒から指弾され、またオボカタ自ら「わたしはそのようなことを望んではいなかった」と語ったと伝えている。さらに事態は驚くべき方向へと向かう。なんと、テルが増殖させた神は神でないことが判明するのである。テルはオボカタが信じられなくなり、そのことを民衆に率直に伝えた。その結果、オボカタ教の信者の間ではテルは裏切り者扱いされるが、しかし当時の民衆の多くはオボカタよりもテルを信じ、オボカタとその使徒たちは孤立した。
民衆の非難の的となったオボカタはうつ病を患い、瀬戸内の小島で療養中、ある尼僧と出会う。神を信じる者と仏を信じる者、この二人の婦人の口論は年の功で尼僧が勝利した。敗れたオボカタは尼僧の弟子となり、仏門に入ることを決心する。オボカタが仏に仕える身となったことを知った神はこう嘆いたという。「オボカタよ、わがオボカタよ、何故に我を見捨て給うや」こうして唯一全能の神はどこにでもいる平凡な「八百万の神」のひとりに成り下がってしまった。
オボカタの出家を契機にオボカタ教は衰退したが、しかしその信者の一部はオボカタ原理主義者(『あの日』に書いてあることはすべて真実だと主張する者)として健在である。彼らの信仰の対象は神ではなく、オボカタというひとりの女性である。実際、彼女がいなければ神は全能ではない。たんなる神を全能の神にすることができるのは、いまのところオボカタひとりである。まさに彼女は神を上回る能力を有する人間なのである。もはや神など、どうでもいい存在である。今や神聖四文字はSTAPではなく、オボカタである。