わけあって『婦人公論』という雑誌を買った。
その雑誌をぱらぱらとめくっていると、ある記事が目に留まった。それは、私のよく知る女性が、坊主頭の老女と対談している記事だった。その老女はかつて「子宮作家」と呼ばれていたらしい。その妖怪のような眼をした「子宮作家」が対談の中で、私のことを次のように言っている。
若山さんはあなたを「今まで見た学生の中で一番優秀」と何度もほめちぎっていた。変わるのね、人間って。
これを受けて、対談相手の女性は
人が変わるのか、もともとそうだったのを見抜けなかったのか。
と応える。
要するに私は善人から悪人に変わったのか、それとも元々、私は悪人なのに、彼女は、それを見抜くことができなかったのかという話になっている。いずれにせよ今の私は悪人だということになる。
だが、今の私にとって彼女が何を言おうと、どうでもいいことだ。私は彼女の言動のすべてを黙殺することに決めたのだから。
彼女は「子宮作家」から小説の書き方を教わるらしい。かつて彼女に論文の書き方を教えた人物がいた。その人は(彼女の言葉を借りて言えば)「お隠れになった」。彼は彼女が研究者とは別の「新たな道」を見出したことを、草葉の陰で喜んでいるかもしれない。もっとも私にとってはどうでもいいことだが。
「子宮作家」は言う
私には人の才能を見抜く力があります。私がものになると言ったら、必ずなる。だから小説を書きなさい。
彼女が文学者として大成し、ノーベル文学賞を獲ること、それはありえないことではない。しかし、ありそうなことでもない。もっとも私にとっては、どうでもいいことだが。ただひとつ言いたいことがあるとすれば、彼女が、科学の世界から身を引くことは、ありがたいということだ。そう思っているのは私だけではないはずだ。
私が『婦人公論』なる雑誌を買おうと思ったのには、もちろん訳がある。
本当は、そのことについては語りたくないのだが、ここまで書いてきた以上、その理由を語らないわけにはいくまい。
私はかつて、その女性に一方的な好意を寄せていた。
しかし『婦人公論』の写真を見たとき、私が知っている当時の姿とはあまりにも変わっていたので、それが、彼女だと確信できなかった。
だから買って、確かめた。やはりその女性は彼女だった。
『婦人公論』2016/6/14号の表紙を飾っていたのは原田知世だった。