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シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

「大学として『コメントしない』という コメントそのものも出さない」というコメント

それよりこれほど明確に若山氏に対する疑念、不正の疑いが証言されているわけだから、当然、若山氏側からの反論があると思うのだが、現時点でのマスコミ報道からはそうした反論は聞かれない。

命をかけた告白に返す言葉はないのですか?若山さん須田さん藤原さん - 小保方晴子さんと、STAP報道に対する個人的資料集

現時点だけでなく、将来的にも若山さんからの反論が聞かれることはないであろうと私は予想する。

山梨大学の「大学として『コメントしない』という コメントそのものも出さない」は、まさに無視する方針が的確に表された言葉である。

小保方晴子さんの手記に思う(続き②): 柏本湊のブログ『我が心の遍歴』

反論ではなく、無視
これが若山さんの選んだ戦略である。当然と言えば当然である。
学者は論文を書き、公表する。論文もまた文章であるが、しかし、それは小説や随筆、批評、そしてノンフィクションとも異質な文章である。論文を書くのが学者、それ以外の文章を書く人は一般に言論人という範疇に収められる。『あの日』を著した小保方さんも今や、立派な言論人である(もはや学者ではない、と言うのは言い過ぎか)。言論人は一般の人を対象に文章を書くのに対して、学者は専門家を対象に論文を書く。論文は自分の研究の結果を他の学者に評価してもらうための手段である。

科学に限らず学者の世界は、専門家の相互承認、相互評価で成り立っている。そして自然科学の場合は、自然現象の説明(仮説)の提示と、別の自然現象をもってなされる仮説の証明からなる。それにより、適用の範囲の広狭はあれ、その仮説は自然法則と見なされるわけだ。それを文書として著したのが論文であり、専門家の相互承認、評価の対象も原則、その論文である。
これは万全ではない。論文が拙くて理解されず、いやそれどころか論文を評価すべき他の学者が理解できる水準に達していなかったため長い間放置された重要論文や、出すべき学会(読ませるべき専門家)を間違えたり、古くは地理的距離などで届かなかった論文だってある。党派的力学で黙殺された論文もある。この相互評価システムは悲劇に満ちている。しかし、それよりもよい確認方法がない。だからそれをやっている。

小保方論文問題に見る科学者と職人の違い | 境 真良

言論人にとって言論は武器でもある。言論という武器を持つ人は不当な言論には言論で反撃するしかない。ひとつには、そうしないと相手の不当な言論を承認したと世間ではみなされるからである。もうひとつには同じ言論人として言論を戦わせること(売られた喧嘩を買うこと)は言論人としての礼儀だからである。言い換えれば相手を無視するという行為は言論人として傲慢な態度である。ただし、あまりにも礼儀をわきまえない言論に対しては無視すること、あるいは別の手段(例えば裁判)で反撃することは当然である。
しかし学者はそのような武器を持ってはいない。だから若山さんが反撃しないからといって小保方さんの言い分を認めたとみなされることはない(少なくとも世間の常識では)。しかし小保方さんを擁護する人たち(以下「信者」と言う)は若山さんは「反論できないから、反論しないのだ」と考える。他方で、私も含め「信者」でない人の多くは(といってもいまだにSTAP問題に興味のあるごく限られた人間であるが)、小保方さんは若山さんに無視されているのだと考える。無視は相手の(言論ではなく)存在そのものを否定するという、最も手軽で最も効果的な反撃方法である(だから言論人が他の言論を無視することは無礼なのである)。
そして「信者」には何を言っても無駄である。小保方さんの言うことは絶対に正しいと信じているのだから。したがって小保方さんだけでなく、その「信者」の存在も無視するしかない。「若山氏側からの反論があると思う」という「信者」の思いには「私たちの存在を無視しないで」という願望が含まれているのではないだろうか。ただ今、もっとも悔しい思いをしているのは、無視された小保方さん本人であるかもしれない。