シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

もうひとつの「火村英生の推理」

 今回のテーマは「必然と偶然および意志」である。

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諸星沙奈江(以下、甲という)が火村英生(以下、乙という)に、お互いの生死をかけてゲームを提案し、乙は受けて立つ。そのゲームのルールは以下の通り。

(1)甲は乙に知られずに、ワインの入った三つのグラスのひとつに毒を入れる。
(2)乙は三つのグラスの中から一つを選択する。
(3)甲は乙が選択しなかった二つのグラスの内、毒の入っていないワインを飲む。
(4)乙は残り二つのグラスを改めて選択し、そのワインを飲む。
(5)甲は残されたワインを飲む。

実際のドラマではゲームは次のように展開される。(2)で乙はグラスRを選択、(3)で甲はグラスGのワインを飲む。乙は(4)で(2)の選択を変更し、グラスBのワインを飲み、甲はRを飲む。さて死ぬのは、甲か乙か?

ということはネタバレになるので言わない。私が問題にするのは、確率である。確率的観点からは、乙は自分が死ぬ方を選択したことになる。(2)の時点で、仮にRを飲んだとして、乙が死ぬ確率は1/3、そうでない確率は2/3。この事情は(3)によって変化しない。すなわちRを飲んで死ぬ確率は1/3、Bを飲んで死ぬ確率は2/3である。つまり選択を変更することによって死ぬ確率は倍になるのである(ドラマでも、そう説明されている)。
この論理は正しい。(モンティ・ホール問題 - Wikipedia参照)

しかし、ここでもうひとつの論理が可能となる。
もし乙が最初に毒の入っていないグラスを選択した場合、残された二つのグラスのいずれかひとつにしか毒が入っていない。だから甲は迷いなく残りの二つのグラスから、毒の入っていないグラスを選ぶことができる(必然的選択)。しかし乙が最初に毒の入っているグラスを選択した場合、残り二つのグラスのいずれにも毒は入っていない。もちろん、どちらを飲んでもいいわけであるが、だからこそ、どちらを選択するか、一瞬、迷わなければならない(偶然的選択)。
甲は頭が切れる。この一瞬の迷いを乙に悟られることを予想して、あらかじめ対策を練る。その対策とは乙が最初に毒の入ったグラスを選択したとき、その次に自分が選択する(毒の入っていない)グラスを前もって決めておくのである(意志的選択)。

本来なら(2)で乙が毒入りのグラスを選ぶか、否かによって、(3)における甲の選択は、必然的選択か偶然的選択に分かれるはずである。

確率とは一般的に偶然的現象を考察することから生まれた概念である。そして必然とは特殊な偶然である。ある現象が必然であるということは、その現象が起きる確率が1であるということである。言い換えればその現象が起きない確率が0である。

(2)で乙が毒入りのグラスを選ぶ確率は1/3である。そのとき、残された二つのグラスのいずれにも毒は入っておらず、そのどちらを飲んでも死ぬ確率は0である。だが(3)で甲が死ぬ確率は0ではない。そのグラスの選択することは、偶然でも必然でもなく、甲の意志によって事前に決定されていたからである。したがって(3)の選択において確率を論じることはできない(だから確率は0ではない、と言った)。ただ、(4)でグラスの選択を変更すれば、乙は確実に助かると言えるだけである。

 

ドラマでは火村英生は確実に助かる方法を選択した。では、その方法とは?

ヒントは1/3である。ただし、それは確率ではない。

臨床犯罪学者・火村英生の推理 I    46番目の密室 (角川ビーンズ文庫)